一支国の国都とみられる丘陵部の建物が数棟、復元されました。また、「魏志倭人伝」に対馬とともに「舟で南北に出かけて食料を買い入れている」と書かれた壱岐国の船着場の詳細が明らかになりました。
2,3世紀の東アジアの国際社会に進出した邪馬台国は、楽浪郡にいたる倭国領の海上ルート上にあった末盧国ー壱岐国ー対馬国などにもこのような港湾施設を確保し、魏に派遣する倭国使や、魏使の受け入れに必要な食料や水の提供、使人の宿泊などが行われたと見られます。
数万点にのぼる遺物は、二三世紀の東アジア諸国家の交流を解明する貴重な価値をもっており、それを研究、展示する資料館の建設工事も近くの山の上で始まりました。
原の辻遺跡 私のコメント
平成8年からはじまった船着場と新しい濠の発掘で、原の辻遺跡の全体像は、だいたい明らかになった。(「原の辻ニユースレター30号」安楽勉調査事務所所長)。
今回の見学で私はこの遺跡を10年以上も調査され、原の辻遺跡の生き字引といわれている宮崎貴夫調査事務所課長に、原の辻遺跡の土器のことをうかがいました。
「二三世紀の弥生土器は、どのくらい出ていますか」(奥野)。
「数千点出土していますが、ほとんど全部が九州系の土器ですね」(宮崎)
「畿内系の弥生土器は出ていますか」(奥野) 「畿内系の土器は出ていません」(宮崎)
韓国のトンネ遺跡やノク島遺跡でも九州の須玖式土器がでていますが、近畿のX様式の土器はカケラも出ていません。
原の辻遺跡は、邪馬台国の魏への遣使ルート上の国として異論のない遺跡です。それゆえに重視されてもいるわけです。遺跡の大勢がわかったこの時点で、近畿の土器が出ないことにどんな意味があるか、このさい、考えてみる必要があると思います。
近畿系の土器が出ない理由はなんでしょうか。
・遣使の一行に近畿系の人がいなかった。
・近畿系の人はいたが、土器だけは九州のものを使った。
・「難升米」のような遣使の上位の人は、皆、近畿の人物だったので、土器などは持参してこなかった。
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