氏 名: 奥野 正男 (おくの まさお)
生年月日: 1931年11月15日(76歳)
現 住 所 : 福岡県遠賀郡遠賀町浅木2丁目24−2
研究分野: 九州の古代史研究
考
文化 文化文化文化の研究
主な論文・著書:
所属学会・研究団体:日本考古学会、考古学研究会、たたら研究会、文化財保存
全国協議会、宮崎県民俗学会、東北アジア文化学会、東アジア歴史学会 |
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団体・役職 筑紫古代文化研究会・会長、 東アジアの古代文化を考える会・会長
略 歴
私の生い立ち
幼少時代 昭和6(1931)年、私は北海道札幌市豊平3丁目で生れました。母の口癖のような言葉では、浜口内閣が銀行の取り付け騒ぎをおこした大不景気時代に、出来てしまった子供、でした。前夫の子(兄)を連れて再婚したばかりの母にとって、私が生まれたことは相当困ったことだったらしく、私の出生届けは「庶子」(旧民法)で、1年後にやっと出されたそうです。私がその戸籍を見たのは、この家族と別れて、結婚しようとした23歳のときでした。私は「嫡出でない子」となっており、母以外の別な女姓の子なのか,なぜ婚姻届けがおくれたのかを母に初めて訊ねたのです。母は、「ばか。わたしの子に決まってるしょ」といい、前夫が死んで、実家に帰っていたので、父母が反対したという事情をはなしてくれました。
豊平の記憶は、夏、豊平川の河原で遊んでいたセピア色の断片だけです。川底でウナギが泳いでいるのを見て、捕まえようとしたらしく、土手の上を歩いていた人に助けあげられたそうです。その頃、父は札幌で“馬車追い”をしていました。馬車追いというのは、馬を使って冬山の材木を運ぶ職業です。貧乏人の子沢山で、私は八人兄弟(兄と姉、弟妹五人)の上から二番目でした。三歳の頃、札幌郊外の定山渓(じようざんけい)温泉からさらに5キロほど山の奥に入った、一の沢という御料林(現在の国有林)で、父母は炭焼きをしていたのです。一の沢の記憶は、大きな猟犬が一匹いたこと、その沢に入るには、ながい川幅の豊平川(上流)を人力のワイヤーケーブルで渡らなければならなかったことです。一、二年で炭に焼く木が少なくなると、炭焼きたちはさらに山奥の谷間に移るのです。入学前の三年間は、滝ノ沢という谷間で過ごしました。山の中の炭焼きの話題は、いつも山の木の話です。次に、春のフキノトウやアイヌネギから始まる四季の山菜やマイタケ、ヤマブドウ、コクワなど山の恵みの話、そして、クマやリス、ヤマドリなど猟師が捕ってくる山の動物の話です。父は冬のあいだ、猟師をしていたのです。
父母や大人がかわす山の木の話し話を聞きながら、木の葉のかたちや、木の皮の色や模様が思い浮かぶようになったのは、小学校にはいるころからです。滝ノ沢の山には、5月のはじめころ最初に雪が解ける山の南斜面に福寿草が顔を見せます。6月はカタクリやミズバショウなど川辺の花が咲き乱れ、7月になると谷間の北向きの斜面に、猛毒のトリカブトの濃い紫の花が咲きます。「これに触ったらダメ」と小さいときから教えられました。小屋のすぐ近くに、沢の流れがあり、飲み水や炊事の水は兄が谷川から汲んでいました。谷間の中ほどに高さ5mほどの滝がありました。沢の水は夏まで残る深山の雪をとかした冷たい水で、沢蟹やカジカ(カワハゼの一種)がたくさん釣れました。カジカ釣りには、釣り針を使わない、家でつかう普通の木綿糸をつかった、独特な仕掛けがありました。餌はもちろんミミズです。母の針箱から太めの木綿針1本と2mほどの木綿糸1本持ち出します。針に糸を通し、その糸の先をミミズの長さぐらい引き出して二本にしておくのがこの仕掛けのミソなのです。四五センチのミミズを針に通していき、つぎに糸を二本になった分だけミミズの体から引き出し、つぎに針のメドから糸を抜き、ミミズのからだに糸が通った状態にしてから、ミミズの体で輪を作るように糸を結びます。糸が貫通したミミズの輪をつけた釣り糸の先に、小石をむすんで重りにし、長いクマザサを一本、根元から折り取って、その竿に糸を結べば完成です。滝つぼなどに入れると、10センチ前後のカジカが入れ食いでした。子供たちは、カジカのエラに葉っぱのついた細いクマザサを通し、家に持ち帰って、囲炉裏のうえのわら束に刺しておきます。カジカはイリコのように味噌汁のダシにつかうのです。
炭焼き小屋は、丸木の掘っ立て柱にクマザサの束で三角形の屋根を葺き、壁もクマザサの束を縄で括りつけた粗末なものでした。板敷きの床の真ん中には炭を燃やす炉がきってあり、入り口には筵(むしろ)を一枚垂らしただけです。冬のあいだ、父は猟師をしていて、ひと冬にクマ三頭を獲ったことがありました。ある冬、200`ちかい雄のヒグマを仕留めたことがありました。そのときは取ったクマを定山渓の市街まで搬出し、福島百貨店という店の前に、足場を組んで、クマが立ち上がったように前足をロープで釣って、その前にたくさんの町の人が並んでいる写真があります。父は寡黙な人でしたが、酒を飲んで機嫌がいいとき、熊狩りのことを話しました。熊は猟犬に追い込まれて、鉄砲を構えている父の方に、唸りながら近づいてくる、緊迫した情景を話してくれました。父は母と一緒になる前は、招集で旭川の軍隊に行っていたそうで、射撃が得意だったようです。中隊一の狙撃兵だったと自慢していました。銃は村田銃のほかに、アメリカ製の8連発のウインチェスターを持っていました。当時、猟師でそういう上等な銃を持っている人はいなかったそうです。
私は定山渓小学校に入学し、三年生まで、熊がでる5キロの山道を歩いて通学しました。冬、新雪がつもると学校はいつも休みでした。一二年の間、私は授業が終わってから、6年の兄の教室で過ごし、いっしょに帰りました。クマが出るので、「一人で帰ってはだめ」と言われていました。この滝ノ沢という場所は後年、地図を見てわかったことですが、いまスキー場で知られるようになったニセコの裏がわのようです。小屋の隅に柳行李と木箱が二つ三つ、せんべい布団が二三組積んであるだけで、鉄砲のほかに家具らしいものは何もありません。三年の年に、この炭焼き小屋で下の妹がうまれました。昼間、母が産気づいてから小屋の外に追い出され、母のうめき声を聞きながら、夕方まで外で過ごした覚えがあります。二つ上の姉は3歳で死にました。死んだあと姉の肛門から回虫がたくさん出たそうです。母は姉の話をするときいつも泣いていました。母も炭木を切ったり、窯に入れたり、炭を俵につめたり、父といっしょに働いていました。子供は、兄と私、妹二人、それぞれ一組の布団に雑魚寝(ざこね)をしていたようです。家にある本は、最後に便所紙になるキングなどの古雑誌二、三冊のほか、どういうわけか細田民樹の分厚い小説『東京』が一冊あったのを覚えています。母がその著者をサイタミンキと読んでいました。子供のころ、絵本などは一冊もみたことがありません。私が最初に見た本は、兄が使った小学校の古い教科書でした。五つ年上の兄は、私が小学校に行く前に、自分の教科書を全部私にお下がりし、漢字を教えてくれたのです。私は入学前に三、四年生の国語読本をだいたい読めたようです。読本にあった大町桂月の紀行文や、独歩の「空知川の岸辺」などを暗記していたように思います。細田の『東京』も、判らない字をそのままに、炭焼き小屋で読んだように思います。おさがりといえば、わたしの服は全部、毎年、兄のおさがりでした。
下がり
炭坑(やま)の子 昭和15(1940)年、九歳(小学三年)の秋、父母は炭焼きをやめて、空知郡美唄(びばい)町に移住しました。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まって、中国での戦争もつづき、日本軍がインドシナに進駐したりで、食料が配給制になり、滝ノ沢の炭焼きや山仕事をしていた馬車追いや木こりたちは炭鉱に流れていったのです。父は三井美唄炭鉱に坑内支繰夫(しくりふ)として就職しました。函館本線美唄駅に降り立った私たち一家は、親子六人、一人ひとりが鍋、釜、茶碗、衣類、教科書などを包んだ風呂敷包みを背負っていました。便所も風呂も水道もない山の中の笹小屋で10年ちかく暮らしてきた、社会の最底辺にいた流民のような家族でした。しかし炭鉱長屋は、私にとって、板張りの家であり、窓ガラスのある、畳というものを敷いた、最初の家だったのです。自然と一体化したような山の炭焼き小屋の生活は、思い返してみると、クマやキタキツネ、タヌキなど子連れの動物が穴倉で子育てをしているのとあまり変わらない、自然な状態だったように思います。
炭坑に移ったときの家族は、姉が定山渓で死亡し、兄と私、妹二人の三人で、その下の妹と弟二人は炭坑に来てから生まれました。山の生活しか知らない私には、4軒長屋が1キロ四方も広がっている炭鉱は、まったく新しい世界でした。当時の三井美唄小学校は1年から高等科二年までで、生徒が400人はいたようです。炭鉱街は山すそに北から職員社宅・会社事務所・商店街・従業員長屋(1丁目から7丁目まで)と別れ、従業員長屋の外周りには、バラ線(有刺鉄線)を5本も張った木柵が巡らしてありました。数カ所ある通路には労務係員が見張っていました。私は鉱夫長屋がなぜ、捕虜収容所のようにバラ線で囲まれているのか、まだ気付いてもいなかったのです
戦時中の小学校 昭和16年、四年生の時、戦争が始まって、国鉄に入っていた兄も招集をうけ、旭川の連隊にはいりました。父は、昭和18年に落盤災害で大怪我をして炭鉱をやめていました。美唄町内の農家の土地を借りて、自家用の食料だけを作る農業をしていました。しかし、昭和19年には、その父も徴用をうけ、室蘭の製鉄所で働いていました。高等二年になってからは、家に男手がいなくなり、八反歩ほどあった水田の田植えから草取り、カボチャ畑の水遣り、草取りまでいっさい、母と私でするしかなくなりました。ほかに年老いた馬が一頭いて、飼料や馬屋の掃除の仕事がありました。
昭和20年の春には、学校の授業がなく、高等科一二年は毎日、炭坑の坑木を担いでトロッコに積み込む作業に動員されていました。食料もないのに弁当を持って炭鉱の坑木かつぎに行くよりは、自分の家の田んぼや畑の仕事をしたほうがいいと思い、学校は休んでいました。ある日、呼び出されて学校に行くと、先生から予科練(少年航空兵)を受けるようにいわれました。兄が兵隊に行き、父が徴用でいないし、家の仕事があるので母に相談するというと、「みんな家の仕事はあるが、戦地でご奉公しているのだ。お前は天皇陛下のために命を捧げられない臆病者だ」と言われました。そう言ったのは、宮脇という男の先生でした。炭鉱の小学校には6年生まで炭鉱会社の職員の子と炭鉱夫の子がいっしょに通学していましたが、職員の子は皆、六年から(旧制)中学に行き、誰も予科練などには行かないのです。佐藤ミツグや斉藤コウイチとか中学にいったやつは誰も予科練は受けていない、と私が言うと、先生は顔を赤くして、「お前、ちょっと来い」といって私の耳たぶをつかみ、私を職員室まで引っ張っていきました。山田という軍服をきた先生から、いきなり往復ビンタを食らいました。殴られた左耳がひどく痛むので、私は顔をそむけて先生の話を聞いていると、「コノヤロ反抗的な態度をやめろ」といってまた殴られました。「先生、耳が痛い」というと「コノヤロ嘘吐きやがって」と私の耳をまた引っ張りました。そのときのことは、母にも言わず、予科練を受けました。当時、私はまだ子供なのに、毎日、生きているのが嫌になったような気分でいました。その後、学校から予科練に受かったという、適任証というスタンプをおした布切れをもらいましたが、すぐ8月に終戦になりました。私の右耳の聴力がすこし落ちるのは、この事件のためです。
炭坑ではたらく 1946年 (14歳),三井美唄炭鉱の坑外・土建課に就職しました。はじめ大工の見習いで三年間はたらき、つぎに建築製図と測量の仕事に移り、国家試験を受けて測量士補の資格を取りました。また働きながら四年間、美唄東高校(定時制・夜間部)を履修、卒業しました。
炭鉱ではたらくようになって七年目、1953年(21歳)、三井鉱山が3000人の指名解雇を実施、三鉱連(三井鉱山企業内労組連合)が113日のストライキをうち、解雇を撤回させました。この闘争は「英雄なき113日の闘い」といわれ、戦後の三井系炭鉱労組のひとつの「勝利の方程式」として三池争議まで引き継がれていきます。
私はその争議なかで、炭鉱の文学・文化サークル運動に参加しました。となりの三菱美唄の「炭鉱の生活史」を記録するサークルや、三井美唄の文学同人誌『萌芽』(ほうが・工藤常夫主催)に参加し、113日のストライキを描いた習作「地の疼き」(300枚)の一部を発表しました。また炭労(日本炭鉱労働組合)の『炭労新聞』に伝記「南助松伝」(350枚)の一部を連載しました。南助松は社会主義協会を創立した片山潜らとともに明治末年、軍隊の出動で鎮圧された三菱大夕張炭鉱や足尾銅山の争議を組織した実在の坑夫です。この頃まだ生きていた歴史の生き証人でした。「南助松伝」のあと、私は雑誌『月刊炭労』に零細炭鉱の惨状をレポートしました。同じ頃、筑豊では上野英信が中小炭鉱の悲惨な実態をするどく告発するレポートを発表していました。当時の私にはまだ力不足で、「エネルギー革命」という国家的スローガンのもとで、雪崩のように進行していく石炭産業の廃山問題を書く力量がなかったのです。当時、私は炭鉱を描いた作品や歴史を勉強しながら、習作を発表する場所をもとめ、1961年、金達寿・西野辰吉・霜多正次らが同人の「リアリズム研究会
」に入りました。同人誌『現実と文学』に炭鉱を舞台にした習作を発表しました。
62年三井美唄炭鉱が閉山し、家族3人と上京.し、小平市に住み、リアリズム研究会で文学活動を続けました。1965年、三池争議のあと、坑内災害が激増する三池炭鉱の労働現場を描いた小説「地底の炎」(『現実と文学』6号)で第3回リアリズム文学賞を受賞しました。この賞は審査委員会が松本清張宅で開かれ、賞金も清張が出してくれたと聞いています。
1969年、福岡市に移住し、ガス爆発後の三池や山野や筑豊のヤマ々を回りました。72年、同人誌『文学列島』に参加し、小説「たたら探し」250枚、「再生回路」300枚を発表。『福岡民報』に小説「湿った風土」350枚を連載しました。この頃文学界新人賞に三年間ほどつづけて応募しましたが、第2次予選通過が精一杯でした。やがて、また文学界
1972年、高松塚古墳の発見を機に歴史ブームが起き、東京では東アジアの古代文化を考える会(江上波夫会長)ができ、会員が2000人を超えました。筑紫古代文化研究会を創設し、古代製鉄研究者の大場憲郎氏に師事し、製鉄遺跡の調査に参加しました。邪馬台国・三角縁神獣鏡・古代日韓交流史の学習・研究をはじめ、金達寿編集の雑誌『日本の中の朝鮮文化』に「韓鍛(からかぬち)卓素の系譜」などを発表しました。
著作歴
1979年「邪馬台国九州論−鉄と鏡による検証−」が『季刊邪馬台国』創刊一周年記念論文に最優秀作で入選。
1980年「三角縁神獣鏡の研究」で、第6回郷土史研究賞(新人物往来社)を受賞。
1981年『邪馬台国はここだ』毎日新聞社の刊行以後、著述活動に専念。
1992年 韓・日文化国際学術大会(ソウル)で、「香春神社と新羅神」を発表。
1988年〜93年 佐賀女子短期大学非常勤講師。
1994年〜宮崎公立大学教授(担当科目:考古学、比較民俗学)、02年3月退職。
2004年11月『神々の汚れた手−旧石器捏造・誰も書かなかった真相』(梓書院刊)で、第58回毎日出版文化賞を受賞。
2005年〜06年 韓国ウルサン大学客員教授 05年11月東北アジア文化学会の大会(釜慶大学校)で基調講演(演題「日本古代の移住民と民俗文化」)。
著書・論文 (『邪馬台国はここだ』毎日新聞社刊、『邪馬台国の鏡』新人物往来社、『鉄の古代史』全3巻・白水社刊、小説『卑弥呼』プレジデント社刊など著書45冊、「卑弥呼の鏡は後漢式鏡」『日本の論点99』文芸春秋社など論文52編)
〔単著20冊〕『邪馬台国はここだ』 『騎馬民族の来た道』(毎日新聞社) 『邪馬台国の鏡』(新人物往来社)
『騎馬民族と日本古代の謎』『古代人は太陽に何を祈ったのか』(大和書房)『鉄の古代史1−.弥生時代−』『鉄の古代史2.−古墳時代−』『鉄の古代史3−騎馬文化−』(白水社) 小説『卑弥呼』(プレジデント社)、ノンフィクション『神々の汚れた手』(梓書院)
〔共著24冊〕『百済王族渡来伝承の謎』三一書房 『日本の神々』(白水社)
〔論文52編〕「卑弥呼の鏡は九州北部の後漢式鏡であって、三角縁神獣鏡ではない」『日本の論点99』文芸春秋社。「鉄製武器の東漸」『東アジアの古代文化114号』(2003.2)

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