筑紫古代文化研究会

会の歩み

  この会が出来たのは昭和46(1971)年の夏、いまから三十六年前のことです。 
当時、すでに福岡市の板付遺跡は九州大学の手で環濠内の貯蔵穴の調査が行われ、日本最古の稲作農耕集落として注目されていました。しかし、板付遺跡の真ん中には通津寺(つうしんじ)というお寺が建っており、市の文化課も出来たばかりで環濠内部の調査と史跡の指定をすすめる上で、お寺の移転や代替地問題のことが一つの難問題になっていました。

ちょうどその頃、私は板付遺跡に近い畑の中で、青銅器を鋳造する時に吹きこぼれたらしい鋳型の跡をのこした銅片を拾い、青銅器につよい関心を持っていました。板付遺跡を最初に発見した中原重顕氏や夜臼式土器を出す遺跡を探し回っていた浜田昌治氏、中国漢代の製鉄遺跡『鞏県鉄生溝』を翻訳し、古代製鉄の遺跡をひとりで調査していた大場憲郎氏らと相談して、遺跡保存の請願署名をすることにしました。このころ月に一度、大場先生につれられて同好者数人で遺跡をまわっていましので、そのメンバーに署名を集めてもらいました。市議会に署名を出すとき、市会議員の寺坂正三氏が、何か団体の名前があった方が良い、というので、「筑紫古代文化研究会」とし、その代表者には、大場先生になっていただきました。この会は、できた当時から、「古代研」(こだいけん)と略称でよんでいます。


この会は、板付遺跡の署名をきっかけに、毎月の遺跡めぐり案内を「筑紫」という会報でしらせることにしました。第1号から第77号までが、ガリ版印刷です。ガリ版は私がきりました。この時期、事務局は八尋冨美さんが引き受けてくれました。八尋さんは『現実と文学』や『民主文学』に筑豊の炭鉱地帯で生きる人々を主人公にした小説を書いた女流作家でした。初めのころの遺跡めぐりには、私がまだ、文学青年の尻尾をひきずっていたせいで、福岡市在住の女流作家で『ある微笑』などの牛島春子氏や推理作家としてもう有名になっていた石沢英太郎夫妻も常連でした。またガリ版時代の会報に、いつも原稿を出してくれたロシヤ語学の難しい翻訳書もある広岡延夫先生も例会の長い列のうしろにいました。広岡先生ご夫妻には、私の再婚の媒酌をしていただきました。



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