わたしの本棚
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著者:ツシマヤマネコBOOK編集委員会 書名:『<改訂版>ツシマヤマネコ』長崎新聞社 定価952円+税 http:www.nagasaki-np.co.jp/ 著者紹介:上山剛司(環境省対馬野生動物保護センター) 清水政弘(長崎県津島地方局総務課) 玖須博一(対馬市観光交流課自然共生班) 佐々木真二郎、前田剛、松原ゆき、茂木周作(環境省対馬野生生物保護センター) 山本英恵(NPO法人動物たちの病院・対馬動物医療センター)、 村山晶(NPO法人動物たちの病院・インペリアル・カレッジ・ロンドン) 参考文献:浦田昭夫『ツシマヤマネコ』(上県町1996年) 『つしま百科』(長崎県対馬支庁 2002年) 浦田昭夫、国分英俊『対馬の自然―対馬の自然と生きものたち』(杉屋書店 1999年) 対馬野生生物保護センター http://www.tusima-yamaneko.jp/ 福岡市動物園 http://zoo.city.fukuoka.lg.jp (ここにもツシマヤマネコがいます) |
はじめに
長崎県の対馬にだけ棲むツシマヤマネコ。ぽっちゃりした顔に丸い耳、太いしっぽを持ち、愛嬌たっぷりです。もちろん、野生の風格も併せ持っていて、実物を見たことのある人の多くはその美しさに感動させられます。
そのツシマヤマネコが絶滅の危機に瀕しています。2000年代前半の推定生息数は80から110頭。環境省編集の
『レッドデーターブック』絶滅危惧TA類とされており、日本で最も絶滅のおそれの高い哺乳類のひとつとなっています。
それにも関わらず、ツシマヤマネコの事を知っているという方はあまり多くありません。「イリオモテヤマネコは知っていても、ツシマヤマネコは聞いたことがない」というのが現状です。絶滅の危機からツシマヤマネコを救うためには、一人でも多くの人にその置かれている現状を知ってもらい、保護の必要性に賛同してもらうことが必要と考え、2003年に、『ツシマヤマネコ―対馬の森で、野生との共存をめざして』(ろうきんブックレット・九州ろうきん長崎本部)が発行されました。
それから5年、今回は、最初の出版後、保護活動がどのように進んだか、これからの課題が何かを中心に執筆を進めました。
執筆に当たっては、以前の本を読まれた方が、その後何が起こっているかを楽しく理解でき、初めてツシマヤマネコのことを知る人にもわかりやすく、ますますツシマヤマネコを身近に感じてもらえるように心がけました。前回同様、ツシマヤマネコの「顔」、それに関わる人たちの「顔」が見えるように、具体的なエピソードをおおく紹介しています。
ツシマヤマネコの紹介を通じて、同時にその生息地「対馬」についても紹介することになりました。対馬は、どこか昔懐かしい景色が各地に残り、そこに暮らす人たちも、都会の人が失ってしまった何かをまだ持っています。ツシマヤマネコ
を通じて、対馬という島の今昔や将来についても考えていただければと思います。そして、それは、日本各地、たとえば皆さんのふるさとの町や村が置かれている状況や抱えている課題にどこか共通しているはずです。
日本のあちこちで、里山を生息地としている動植物たちが絶滅の危機に瀕しています。道路やダム建設などの目に見えやすい自然破壊だけでなく、私たち人間が自然とのかかわりを持たなくなってきたことも、豊かな自然が失われる大きな原因になっています。ツシマヤマネコを通じて、もう一度、身近な自然や動物との関わり方を考えてみませんか。その先にあるものは、本当の意味での豊かな暮らしではないかと思います。
ツシマヤマネコBOOK編集委員会
2008年3月
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著者:新井宏(あらい ひろし) 書名:『理系の視点からみた「考古学」の論争点』大和書房 定価3000円+税 著者紹介:1937年東京都生まれ。1960年東京工業大学物理卒。日本金属工業常務取締役を経て、現在、韓国国立慶尚大学招聘教授(2001〜)工学博士。専門は金属考古学・古代計量史。 著書:『まぼろしの古代尺』(吉川弘文館)『金属を通じて歴史を見る』(「バウンダリー」長期連載) |
本書には、「三角縁神獣鏡は魏鏡か?国産鏡か?」という考古学界で長いあいだ論議されてきた問題が、理系の金属考古学者による鉛産地の研究論文によって、すでに「国産鏡」という学問的な決着がついているという。考古学・古代史界の通説をひっくりがえす衝撃的、画期的な内容がいっぱいある。
この本の著者・新井宏氏の研究によって、青銅器の生産地(青銅器にふくむ鉛の産地)を同定する真の方法が是正されたわけだから、この金属学・冶金学上の成果は、世界レベルの科学研究なのである。しかし,氏の論文が発表されてから八年たち、本書が出てすでに八ケ月になろうとしているが、「魏鏡論」者からは一言の反論もない。それだけではなく三角縁神獣鏡鏡の製作地をめぐる論争で、つねに多数派(魏鏡説)に軍配をあげてきたマスコミはいま、学会誌に発表した新井論文(注1)の学問的な衝撃性にすら気づかない(ふりをしている)のか、高松塚古墳の破壊報道にあらわれたように、学問的な結論の真偽を学会リーダーや文化庁スジの顔色を伺いながら報道する、かなり重い体制追随症に陥っているようなのだ。学界が少数派の問題提起を黙殺し、マスコミが文化庁スジにおもねって学会多数派に同調していった旧石器捏造の図式が少しも変わっていないのかとも思う。
著者の論点は、三角縁神獣鏡鏡の問題だけではない。弥生時代は500年溯るのか? 古墳はどんなモノサシで造られたか? 弥生時代には製鉄は行われなかったのか?などなど、いま続いている考古・歴史分野の論争にも、著者の具体的な分析数値を根拠にした論証によって、万人が納得できる科学的な結論をしめしている。著者の基礎データにもとづく説得力にみちた研究方法は、さきの捏造事件で表面化した日本の考古学界が失ないかけている科学性をとりもどす方向を具体的に提示していると感じた。
銅鏡以外の感想は別に書くことにし、この欄では、私もかかわった三角縁神獣鏡や前期旧石器遺跡をめぐる考古学界の論争とを関連させながら、人文系の考古学が理系の諸科学とどのようにかかわってきたのか、二、三書きたい。
三角縁神獣鏡の魏鏡論者は、この鏡が中国から一面も出ないことを「特鋳鏡だから出ない」と言い続けてきた。つまり卑弥呼に下賜するために特別に鋳造した鏡だから、中国で出土しないというのである。その場合、本来は「特鋳」の事実を考古学でどう立証するかが課題になるはずだが、実はそうではない。多数派の考古学者からは「中国で一枚も出ないのが特鋳の証拠なのだ」という、屁(へ)理屈のような「循環論」的な答えしか返ってこない。卑弥呼が魏に遣使したという三世紀前葉の中国で、後漢代になかった新様式の神獣鏡が倭国への贈呈用として500枚以上も大量に「特鋳」された、という主張だ。それなら、それはそれでいい。「特鋳」説は一つの仮説である。その仮説は、考古学の研究課題そのものであり、倭国の古墳から出る鏡がいつ、どこで、どんな原料やどんな鋳型を使って製作されたかが、科学的に研究されるべきでなのだある。
魏にない「景初四年」銘(注2)の盤龍鏡が1986年に出たとき、特鋳鏡論者の屁理屈はほぼ頂点に達したようである。都出比呂志氏(大阪大学教授)は「年賀状」説を出し、マスコミはそれを大々的に報じた。都出説は、"景初四年という年号はたしかに魏にないが、特鋳鏡は年賀状とおなじように、出す前の年の年号を書きこんで、前の年に量産したのだ"といった趣旨である。この年(86年)東北歴史資料館の発表にも、13万年前の馬場壇A遺跡の石器からナウマン象とオオツノジカの脂肪酸が検出されたという発表があって、マスコミを賑わせた。日本の考古学界には、そんな古い石器に付着した動物の脂が検出されうるという研究には、素人とおなじように無知であった。すでにこのころから旧石器の捏造を始めていた東北歴史資料館の考古学者にとっては、それが国立大学の科学者によって検出された科学的な分析値であるということだけがマスコミをうごかすニユース種だった。鏡の特鋳鏡論者が選択した三角縁神獣鏡の鉛同位体比の研究(青銅器の鉛産地の研究)も同様で、その研究は「特鋳」説を支持する科学者や国立研究機関(注3)によって独占的に研究されてきており、彼らが分析に用いた中国の鉛鉱山で検出した鉛の同位体比などその基礎データが公表されることは皆無であった。鏡の特鋳鏡論者にとっては、旧石器と同様に、その分析値が国立研究機関の科学者によって検出された科学的な分析値であるということだけが、自説に有利な方向にマスコミをうごかすことができる価値あるニユース種だったのだ。
三角縁神獣鏡が「特鋳鏡」であるという主張を学会の軌道に載せたのは、都出氏や田中琢氏(奈良文化財研究所・文化庁遺跡調査官)ら90年代の考古学界を代表する人々であった。その主張は、小林行雄氏(京都大学教授)の先駆的な三角縁神獣鏡魏鏡説を補完する学会の正論のように新聞や本に書かれていたのを、私は忘れない。いままで学問に値しない、科学研究にも値しない、諸外国の考古学界にも通用しない「特鋳鏡」などとい似非(えせ)理論が世間にまかり通っていたのは、それがまかり通るような社会的条件が日本の考古学界にあったからで、それが考古学の真理だったから支持されていたわけでは決してない。文化庁・文部科学省・国立歴史民俗資料館・奈良国立文化財研究所(奈文研)の傘下にある埋蔵文化財業界の多数をしめる行政研究者(全国の都道府県地方自治体の発掘調査をしている教育委員会職員)の多数がその文化財行政の指導に従っているだけにすぎないのである。日本考古学協会の会員の九割以上を占めている行政研究者は公務員という身分ので相互に繋がっており。特鋳説を主張してきた都出氏や田中氏は、国立大学や文化庁という公務員組織における行政研究者の最上級の上司にあたっている。埋蔵文化財業界=日本考古学協会という関係のもとで文化庁の埋蔵文化財課の行政指導に反対が出ないのは当たり前のことといえよう。
新井氏は三角縁神獣鏡の製作地論争について、「昭和三十二(1957)年、小林行雄氏が「景初三年」「正始元年」の紀年鏡を根拠に、三角縁神獣鏡鏡こそ、卑弥呼に下賜された鏡だとし、同笵鏡の分有関係から、大和を邪馬台国とする壮大な古代国家像を示したことにはじまる。一方、三角縁神獣鏡鏡の非魏鏡説は昭和三十七(1962)年に、森浩一氏の「中国から一枚も出ていない」ことが主な論拠であったが、続いて松本清張氏、古田武彦氏も銘文の乱れなどから非魏鏡説を展開、その結果を受けて、昭和五十六(1981)年、奥野正男氏が三角縁神獣鏡鏡には笠松紋という非中国的な文様があることなど型式学的に見ても国産鏡が大部分であると主張した。ただし、これらの問題提起は、学会の主流から全く顧みられることはなかった」と同書(21ページ)で書いている。
ついで、「状況が変わったのは昭和58(1982)年に中国の有力な考古学者王仲殊氏が、中国呉の渡来工人による日本産説を発表した頃からである。論拠は三角縁神獣鏡鏡の源流になっている神獣鏡や画像鏡は江南の呉の領域で発達したものであり、華北の鏡には類似鏡が見当たらないということであった。王仲殊氏にたする魏鏡説の反論で、新しい見地をくわえたのは、福永伸也氏の長方の鈕孔論である。
それは三角縁神獣鏡鏡の多くが倭鏡や彷製鏡には少ない長方形の鈕孔を持っており、そのような鈕孔を持つ鏡は、魏の東北部の勢力圏すなわち渤海湾沿岸地域でのみ発見されていることから、福永氏は『公孫氏の勢力下で銅鏡製作を行っていた工人集団が公孫氏滅亡後、魏によって再編成され、卑弥呼下賜用の鏡製作に当った』可能性を指摘した」。
ここでひとこと、拙著『邪馬台国の鏡』にふれるが、この本は三角縁神獣鏡鏡の国産を論じたものではあるが、この当時、三角縁神獣鏡が全部で何面あるのかということすら一般には公開されていなかったので、その出土地名表(375面)なども初めて公表した本であった。学界で大きな話題になった王論文よりも一年前に出ているのだが、学界からは完全に黙殺されたような状態だった。また福永氏が魏鏡説の根拠に探し出した長方形鈕孔の中国鏡の出現率は、おそらく1/10000をうわまわるであろう。これに対し日本の三角縁神獣鏡鏡における長方形鈕孔の出現率は完全な100パーセントである。
80年代はじめ、東京国立文化財研究所の馬淵久夫氏らは、国、地方の考古学機関から前漢鏡、弥生時代の細型銅剣、銅鐸、小型?製鏡、三角縁神獣鏡などの文化財を提供させ、高精度の質量分析器を用いて青銅器の鉛同位体比を分析した。馬淵氏らが独自に作った華北、華南、日本、朝鮮半島など鉛鉱山のある4地区の領域図に、前記の同位体比を分析した遺物を分類した。その結果は、前漢鏡や弥生時代の銅鐸や?製鏡が華北の鉛の領域に、後漢・三国鏡とされている古墳出土の三角縁神獣鏡鏡が華南の鉛の領域に、細型銅剣や前期の銅鐸などが朝鮮半島の鉛の領域に、それぞれ整然と入ることが判ったという。それでは中国で出土している三国時代の神獣鏡、つまり真の中国鏡はどの鉛の領域に入るのか。それが「三角縁神獣鏡は魏鏡か?国産鏡か?」に決着をつける最大の論点である。ところが、馬淵氏らは、中国で出土した三国時代の神獣鏡、つまり真の中国鏡は一枚も分析をしていなかったのである。三角縁神獣鏡鏡は中国製という、考古学界多数派の結論をそのまま受け入れ、中国出土鏡は分析する必要がないと判断したのか。この馬淵論文(注4)は昭和57年(1982)に出ているから、分析値のもっとも重要な数値がすりかえられたまま、新井氏が@論文を発表した2000年まで、18年間ものあいだ、特鋳説は冶金学的にも証明されてきたかのように喧伝されていたわけである。また、鉛をだす鉱山の領域が馬淵氏のように整然と分けられないことは、当時すでに日本の神岡鉱山の例(中国の鉛同位体比に近い)から指摘されていたが、そのことも2000年に新井氏が始めて指摘するまで黙殺されたまま論じられなかった。
要するに、東京国立文化財研究所の鉛同位体比の研究によると、三角縁神獣鏡鏡の鉛同位体比は全部、中国産の数値をしめす華南産の領域にはいることが繰り返し発表され、学会だけではなく、マスコミや他領域の学会・研究者にも、三角縁神獣鏡の特鋳説が金属学・冶金学会の科学的分析によって裏づけられていると信じられていたのである。馬淵氏らは18年間ものあいだなぜ基礎資料を公開しなかったのか、謎に満ちているが、ここから先は、読者の楽しみに書かないでおこうと思う。
最後にひとこと、旧石器時代の考古学の研究には、地質、地層の年代を明らかにする火山灰の研究が応用され、大きな成果を生み出した。また石器の使用痕をさぐる研究には、高倍率の金属顕微鏡が活用された。しかし、旧石器捏造事件では、その理系の研究成果はすべて、捏造石器を本物にみせかけ、ふるい時代に見せかける、考古学者が人をあざむき、世間をだます手段として悪用されたのであった。
注1:新井宏論文
@「鉛同位体比による青銅器の鉛産地推定をめぐって」『考古学雑誌』八十五巻二号(二〇〇〇)
A「三角縁神獣鏡・泉屋博の分析方法は重大な誤り」『季刊邪馬台国』八十七号(二〇〇〇五・四)
B「鉛同位体比からみた三角縁神獣鏡の製作地」『情報考古学』十一巻一号(二〇〇五)
C「鉛同位体比からみて三角縁神獣鏡は非魏鏡」『東アジアの古代文化』(二〇〇六・秋)
注2:魏の明帝の「景初」年号は三年まで。翌年一月一日に明帝が崩去したため、その月を景初「後十二月」とし二月から「正始」年号に変わる。
注3:東京国立文化財研究所
注4:馬淵久夫・平尾良光「鉛同位体比による漢式鏡の研究」1982年1月『MUSEUM』
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著者:江口素里奈(えぐち そりな) 書名:『江田船山古墳鉄剣銘の秘密ー被葬者は百済王の王子だったー』五月書房定価3000円+税 著者紹介:1927年、韓国慶尚南道蔚山市生まれ。韓国の温陽小学校卒業後、正則学園中学、正則学園高校、青山学院大学英米文学科中退。英国系繊維商社に15年勤務後独立、輸出入業現役。1951年日本国籍取得。東アジアの古代文化を考える会会員。 |
感想:本書のおもな主張は、熊本の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の漢字銘文に、韓国の「吏読」(リト)が使われているという観点から、その大刀や遺物のすべてを百済の蓋鹵王(455〜475)の贈物とする。そして、それをもらったのが、肥後・玉名にあった"百済の分国"にきていた「百済王の皇子」(武寧王・462〜523)だという主張をしている。蓋鹵王説は北朝鮮や在日の考古学者にいるのだが、事情があるとみえ、この本には蓋鹵王系の研究史を欠いている。自分はどの学説の上に立っているか。それをはっきりさせるのは素人も玄人もない、歴史を学ぶ大事な姿勢の一つである。
刀剣の象嵌文字や鏡の銘文から賜与した者が日本の天皇ではなく、百済王であるという論議のある金石文が、日本には、ほかに二例ある。ひとつは、石上神宮の七支刀であり、これは、上位の百済王から下位の「候王」に賜与したと読める文字がある。もうひとつは和歌山県橋本市の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡である。この鏡には、百済武寧王の墓誌と同じ「斯麻」という名が入っているが、これを、百済の武寧王とする解読者がごく少数という現状である。これは何が原因なのか。
日本の歴史・考古学界は、埼玉・稲荷山古墳の鉄剣銘の発見いご、銘文の「獲加多支鹵大王」を大泊瀬幼建天皇(雄略紀・在位457〜479、記崩年124歳)にあて、雄略天皇が関東・埼玉の首長に金象嵌の銘文いり鉄剣を、九州・肥後の首長には銀象嵌の銘文いり大刀を下賜したとする説が定説化した。
この定説は五世紀代に、大王(天皇)が関東から九州までの支配権を確立したとする統一国家観とむすびついて、発見から28年を経た現在まで、これに代わる学説が出されていない。
本書の内容からは、まず、五世紀代の国家形成の根底に、百済・伽耶を通じて漢字文化を受け入れた日本語と朝鮮語(吏読)の問題がよこたわっていることを教えてくれる。著者は吏読に関する薀蓄を語った後、江田船山古墳・鉄刀銘文を、ハングル文に書き直して見せているが、これで吏読使用の証明ができたと思っているわけではないと思う。
金石文は日本語を漢字の音訓であらわす万葉仮名にいたる漢字習得史の一里塚である。5世紀代の金石文は、万葉仮名・古事記の成立(720年)よりも、さらに200〜300年遡った時点の文字であることを前提に研究することが大切と思う。近年の研究では、「居、足、?、披、鹵、鬼」などの銘文の文字が万葉仮名にはなく、日本書記引用の「百済三書」や「上宮聖徳法王帝説」などをふくむ推古遺文の固有名詞の表記と共通するようである。(注1)「沙至比跪」などの「百済三書」の人名が日本書紀の同じ巻の本文に出てくるので、百済資料を使用している日本書紀の編集方針が知られるという。(注2)
稲荷山鉄剣の銘文の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇とする説に私も反対である。主な理由(『鉄の古代史2』)は本書にも引用していただいたが、万葉仮名と古い大和の地名や金石文を対比した最近の研究から、天皇の諱(いみな・本名)の問題について、私見を書いてみたい。雄略の諱は、「大泊瀬幼建」である。記紀ともに「幼建」と略して書いてはいない。「幼建」は若大将・若君というような普通名詞だから、それだけではどこの若大将かわからないから記紀ともにフルネームをかいているのである。一方、日本書紀には、「大泊瀬天皇」が一回だけ使われており、雄略は泊瀬の朝倉宮で即位した唯一の天皇だから、日本書紀が「大泊瀬天皇」と書いても、誰かわかる書き方とはいえる。ただし、干支で暦年代が書かれるようになるまで、天皇の諱は『古事記』のように年代の新旧を表していたいたのである。だから天皇の諱は略すようなことをしなかったと,私は考えるのである。そもそも『日本書紀』とは「倭の五王」のことが一言も書かれていない「歴史書」なのである。金石文の大王名を、「武」=「幼建」を前提にして雄略天皇と決め付ける前に、文献史学は「倭の五王」が日本書紀に出てこない理由を資料批判として解明することが先決なのである。
また、日本の考古・歴史学界は、四〜五世紀の古墳から出る三角縁神獣鏡を三世紀に大和に都をおいた邪馬台国の卑弥呼が魏からもらった「銅鏡百枚」とする三角縁神獣鏡魏鏡説に支えられて、戦後六十年にわたって、邪馬台国を三世紀の統一国家とする説を奉持してきた―(三角縁神獣鏡魏鏡説が冶金学者の学問的捏造にちかい資料操作によって創り出された似非科学史論であったことは、本欄・前段の新井宏著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』大和書房でとりあげた)―邪馬台国を三世紀の統一国家とする説もまた、敗戦後、真正面から掲げられなくなった記紀史観、すなわち万世一系の天皇を国家主権者に位置づけ、東北アジア史に刻まれた漢書・後漢書、魏志の倭国、宋書の「倭の五王」の史実を倭国史から排除している記紀の史観と低通する自民族中心主義(エスノセントリズム)なのである。日本の考古学界はすでに四半世紀まえから、この似非科学史観に骨がらみとなっているこを直視しなければならない。 “日本列島には北京原人よりも古い70万年まえの遺跡がある”と豪語し、それを国の史跡にし、教科書にも書き、捏造の中心になった学者が今も何の責任をとることもなく、文化庁や東京大学にいることを忘れてはならない。本書が掲げる鉄刀銘文の大王名を百済の蓋鹵王とする主張は、日本人の歴史認識に鋭く問いかけるものである。
(注1)毛利正守「漢字受容期の資料をめぐって」『しにか』1992年9月号。
(注2)木下礼仁「日本書紀素材論への試み」1964年(森博達「日本書紀の謎を解く」中公新書1999年)、木下礼仁『日本書紀と古代朝鮮』1993年。
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著者:久々知 武 書名:『隼人族呉人説』新風社 定価1200円+税 著者紹介:1958年生まれ。神奈川県出身横浜市在住。1982年、成蹊大学法学部政治学科卒業。1990年から広告代理店勤務。2005年から地域活性化のプロジェクトを企画。九州の歴史や地理を研究、新ジャンルの本を執筆中。 |