捏造事件から学ぶ考古学           角張淳一

                                       講演資料
1 ごあいさつ

奥野先生、受賞おめでとうございます。梓書院様、おめでとうございます。本日は高い席から皆様にお話をいたし、まことに恐縮でございます。
 さて、本日は、捏造事件から学ぶ考古学という題でお話を申し上げます。本日の話は2つに分かれておりまして、前半は、捏造問題の本質と構造、後半はそこから学ぶ考古学という学問についてお話をいたしたいと思います。時間が許せば私がインターネットで書いた批判文の経緯もお話したいと思います。

2 捏造事件の歴史

 まず、この捏造事件ですが25年も続いたわけであります。その25年の捏造の歴史は、大きく2つの段階に分かれます。つまり、捏造の前半と捏造の後半という歴史的な段階があります。それを最初に整理しておきましょう。

 前半の捏造遺跡というのは、1976年の座散乱木遺跡第一次調査から、1989年の馬場壇A遺跡6次調査までです。1990年から1992年に高森遺跡がありますが、これは石器文化談話会から分かれて「東北旧石器文化研究所」がつくられるきっかけになった遺跡です。事実を簡潔にするために、そのことは触れないで、ここでは1989年までを前半、1990年以降を後半といたします。
 前半の捏造遺跡は、発掘前に非常に準備を重ねて地層をみてまわり、石器の勉強会を開いて、そのあとに発掘されています。発掘組織も東北歴史資料館が強力なバックアップをした学術発掘で、国や県をあげての体制で行われ、まさに公的権威の信頼性という点では申し分のない発掘です。それは、民と官の差からいえば、後半のNPOの発掘とは桁違いの信頼性であります。
 ここには専門家が数多く参加し、東北大学の大学院生を中心にした体制に、様々な大学の考古学専攻生が参加し、岡村さんが責任者だった初期の馬場壇A遺跡の調査は、さながら考古学専攻の大学合同考古学実習のような様相でもあったわけであります。わたくしも馬場壇A遺跡に参加しておりましたが、発掘で石器が出土した日には、みんなでその日の成果の勉強会などをしておりました。まさか、これが捏造遺跡だなんて、思いもよりませんでした。
 しかも、出土する石器は、フランスの中期旧石器のようで、地層年代もその通りですし、とにかく感動の嵐であったわけであります。ついに、日本列島にもでたか、という思いで、学生の身でありながら、馬場壇A遺跡の発掘に参加できたことを誇らしく思っていました。
 1988年に、竹岡先生の師匠であるリュムレイ先生が、東京都の多摩ニュータウン471b遺跡の石器をご覧になったとき、「これはムステリアンである」と言われた逸話があるそうです。そしてリュムレイ先生は、その後にフランスの研究者を日本に紹介するからと言われたそうであります。前半の捏造石器が、本場の研究者も騙すことができるほど、よくできた石器であることが、これで十分にご理解いただけると思います。しかも80年代後半には熱残留磁気、使用痕など、当時の先進的な科学研究が取り入れられ、発掘調査報告書もきちんと出版されています。
 さて、後半の捏造遺跡でありますが、これは東北旧石器文化研究所が発掘主体となった遺跡で、1994年の上高森遺跡で石器埋納遺構がでたり、袖原遺跡で原人石器に縄文の押圧剥離の加工があったりして、日本原人が高度な知能をもつという学説もでました。発掘調査報告書は、捏造発覚以前には全く出版されておりません。ある意味では、でたらめで荒唐無稽な成果でありますが、そのアンビリーバルさを、前半の成果を踏み台にして、とにかく出ちゃったものはしょうがないと言い続け、マスコミに流し続けたのが後半の捏造遺跡であります。

3 捏造事件の本質と構造

 以上のように、捏造事件には前半と後半がありまして、後半の遺跡というのが、ある意味デタラメで、そこから変だぞ、という人が大勢いまして、わたしもそのウチの一人であったわけです。そこで、捏造の歴史の後半は、私のようなものでも捏造とわかる石器が埋められていたわけですので、これは捏造としては失敗の10年です。
 しかし、前半の遺跡、つまり座散乱木遺跡や馬場壇A遺跡は後半の遺跡とは違い、捏造としては成功したわけです。後半がなかったら、半永久的に捏造がわからなかったかもしれません。
 ということは、この捏造事件の本質は捏造の成功した前半にあるといえます。つまり、前半の15年にこそ捏造事件の本質と構造が隠されているわけであります。
 そして前半の捏造遺跡は、縄文草創期・後期旧石器・前期旧石器・使用痕研究と多様です。この点も重要です。
 これから捏造遺跡を少し詳しくみていきましょう。
 まず中期旧石器と呼ばれる3万年以前から7?8万年前、今は13万年前くらいになるといわれる石器文化は、斜軸尖頭器と訳されたルヴァロワポイントを示準石器とする文化です。
 その石器が日本にあるんじゃないかという予見がありました。というのは、1965年に、栃木県の星野遺跡の石器を芹沢先生がみて、それを直感しました。そして1965年から67年までに三度の発掘を東北大学で行い、さらに四次調査を1973年に行っています。同じ73年には長野県飯田の石子原遺跡も斜軸尖頭器の遺跡として岡村道雄さんがまとめ、74年から75年にかけては、小田静夫さんによる武蔵野台地の立川ローム層最下層の3万年前の石器群が次々と発掘されています。
 こうした背景をもとに、斜軸尖頭器石器群には3つの段階変遷がありそうだ、という理論仮説論文が、芹沢長介先生の指導で、1976年に岡村道雄さんによって書かれます。
 ですので、学史的にみて76年の岡村論文は非常に時宜をえた論文なのです。
そして岡村さんの書いた仮説通りのことが、座散乱木遺跡の第三次調査と馬場壇A遺跡で現実化しました。もちろん、その発掘の責任者は論文を書いた岡村さんです。座散乱木遺跡の第三次調査と馬場壇A遺跡は、岡村道雄さんの前期・中期旧石器仮説を現実化したわけです。
 座散乱木遺跡と馬場壇A遺跡について、興味深い点を少し補足しておきます。何で座散乱木遺跡だけでなく、馬場壇A遺跡も掘らなくてはならなかったのかという点です。 

 実は座散乱木遺跡だけでは岡村学説は成立しないのです。

 座散乱木遺跡の三次調査の発掘調査概報、概報というのは正式報告書を作成する以前に遺跡の概要をまとめて事前発表をする薄い冊子ですが、座散乱木遺跡の概報は発掘中に作られています。それをみますと、7万年前、4万年前、3万年前の地層から石器が出土し、それらは段階的に変化しています。
 これは岡村仮説にピッタリです。これが正しければ、岡村仮説は決まりです。
 しかし、座散乱木遺跡三次調査の正式な調査報告書では、7万年前の地層年代は4万年前となっています。
 正式報告書で詳細に分析された地層年代は、概報に記された年代とは違って、最も古い石器の地層年代が4万年前になってしまっています。

 調べてみますと、座散乱木遺跡の発掘調査以前の地層踏査では、座散乱木遺跡最下層は7万年前の荷坂凝灰岩層と記載されております。ところが発掘調査報告書では、荷坂凝灰岩層ではなく、4万年前の柳澤火砕流となっております。
 つまり発掘調査にいたる事前の地層調査を間違えています。柳澤火砕流を荷坂凝灰岩層と間違えて、さらにそれを発掘中にも気づかなくて、発掘中に発行された座散乱木遺跡の概報では岡村仮説の通りの石器の出土を報じています。しかし報告書をつくるにあたって、正確な分析がなされ、あれは荷坂凝灰岩層じゃなくて柳澤火砕流となったわけであります。
 ですので、岡村理論仮説は座散乱木遺跡では完成しません。岡村仮説が成立するためには、7万年前の石器が、どうしても必要です。

 座散乱木遺跡三次調査の報告書は83年3月に刊行されます。ひとつき遅れて、すぐに馬場壇A遺跡の発掘がはじまります。83年4月と10月です。
 馬場壇A遺跡は、座散乱木遺跡のように縄文草創期や後期旧石器はでません。最初から中期旧石器です。まっしぐらに中期旧石器です。そして83年の10月には、13万年以前の前期旧石器もでて、岡村仮説はここに発掘事実として現実化しました。
 馬場壇A遺跡の報告書は86年に刊行されますが、その中で岡村さんは、前期旧石器の編年は自分の仮説とまさしく一致したと書かれ、前期旧石器編年の理論仮説が現実化したことを述べています。そして、座散乱木遺跡第三次調査の最下層の石器、つまり当初は7万年前と見込んだが、4万年前となった石器については、形態は古そうで、4万年前という年代にはそぐわない石器であり、そしてそれは例外なので、おそらく、そういう石器はもう今後は出土しないだろうと、馬場壇A遺跡の報告書で予言されております。この予言は、以後の捏造遺跡では現実化しています。 
以上のように、岡村理論仮説は、座散乱木遺跡だけでは完成せず、馬場壇A遺跡も含めて完成しているのです。
 その後馬場壇A遺跡は、東北歴史博物館(当時は東北歴史資料館)の山田晃弘技官によって受け継がれ、1989年の6次調査まで行われます。山田技官の調査によって、熱残留磁気の残る場所が特定されて焚き火の跡と推定され、数十万年前の石器使用痕がみつかり、石器からナウマン象の脂肪酸がみつかります。ナウマン象の脂肪酸の付いた石器が焚き火のあとを囲むように発掘されます。脂肪酸は広島大学の難波先生が見破ったように、ダメであります。使用痕については数十万年前の風化面に当時の使用痕が検出可能かという疑問が残ります。焚き火のあとはよくわかりませんが、その周囲に都合よく石器が出土しているのは不思議です。
 要するに、岡村さんのあとを次いだ山田晃弘技官の調査では、現代人がいかにも思いつきそうな、原始人の姿を彷彿とさせるような都合のよいデータばかりがでているわけであります。この馬場壇A遺跡の都合のよいデータが、岡村さんの「縄文の生活誌」に書かれている前期旧石器人の物語になっているわけであります。そして座散乱木遺跡と馬場壇A遺跡は捏造ということであります。

 さて、次に、座散乱木遺跡の二次調査についてお話します。それは使用痕研究に深い関わりがあります。使用痕がわからないと座散乱木遺跡二次調査の捏造の意味がわかりませんので、お話します。
 使用痕研究というのは、石器の刃先を顕微鏡でみて、刃先の摩耗痕をみつけます。そして実験石器の摩耗痕と比較して、これはイネを切ったとか、動物の皮であるとか同定し、石器の機能を明らかにする研究です。
 もう少し使用痕研究について詳しくお話しましょう。
 使用痕研究というのは、正式には実験用使用痕研究といわれる研究で、実験と実物の石器の比較で成立します。たとえば実験でイネを切りますと、石器はイネのケイ酸体で研磨されて、石器の刃先がピカピカになる摩耗光沢ができます。 
 この摩耗光沢をAタイプとしましょう。そこで、弥生時代の石包丁の刃先をみますと、そこにはAタイプに非常によく似た摩耗痕が観察できるわけです。
 弥生時代は稲作に代表されますし、石包丁も稲の穂首を刈り取る石器といわれておりますが、その石包丁には実験で稲を切ったときの摩耗痕と同じものが観察できるわけです。
 こうして、実験によって生じた使用痕光沢と実物の石器の使用痕光沢を比較検討し、石器の使い方とその対象物について、確からしい作業仮説を提示していく研究が使用痕研究です。この結論は、作業仮説ではありますが、実験研究を介在させて、実物の石器の分析事例の比較という類例を積み重ねると、限りなく真実に近くなります。だから、たくさん実験して、たくさんの石器を観察しなければならないのです。
 さて、光沢を研究する実験使用痕研究には急所がふたつほどあります。
 そのひとつは、観察に200倍?400倍くらいの顕微鏡をつかいます。裸眼の観察ではできません。時々、僕はルーペで石器をみているけれど、使用痕光沢なんて見えない、というご質問も承りますが、ルーペでは石器縁辺に摩耗で生じた光沢痕を見分けることはできません。つまり、顕微鏡が使いこなせないと使用痕研究はできないのです。ここがひとつのポイントです。
 次の急所は、実験で生じた使用痕というのは現代の使用痕です。先ほども申しあげましたが、実験使用痕と実際の石器の使用痕がピッタリと一致するわけではありません。実験で生じた使用痕は先史時代の人が石器を使ってできた使用痕ではありませんので、これは当然といえば当然です。この点で申しあげれば、実験室での使用痕は条件を狭く限定しますので、いわばフィクションです。先史時代の現実ではありません。これは使用痕研究を進める上で非常に大事なポイントですので、論旨が少し難しいのですがここを押さえておいてください。

 さて、 使用痕研究は、芹沢長介先生が、オックスフォード大学のキーリー先生に教わって、東北大学に持ち込みます。それで1978年3月から79年9月にかけて助手の梶原洋さんと大学院生の阿子島香さんが、自分で石器をつくって、木や骨や皮をなめすなどの実験研究を行いました。それで約1年半かけて、実験した摩耗痕の種類をタイプ分類することに成功します。

 そして使用痕のタイプ分類が完成したのは79年9月、一月後の10月には座散乱木遺跡第二次調査が行われます。調査責任者は梶原洋さんで、今は東北福祉大の教授です。
 発掘の翌年の80年に座散乱木遺跡の二次調査の報告書が刊行されます。それをみますと、使用痕研究が大々的に掲載されており、驚くことには、発掘で出土した石器の多くに、梶原さんが分類した典型的な使用痕が数多くみつかります。執筆者は梶原さん。
 梶原さんは、座散乱木遺跡の使用痕石器の出土分布を検討して、ここでは皮をなめした場所とか、すすきのようなイネ科の植物を切った場所というような、遺跡内の場の機能の推定をされました。ここで興味深い問題点が4点ほどありますので、申しあげておきます。

 興味深い問題点、その1。

 座散乱木遺跡二次調査では、実験研究でできた使用痕タイプ数種類が、座散乱木遺跡で出土した石器の使用痕タイプに一致します。
 つまり、フィクションと現実が相当に一致します。 
 我が社も使用痕研究センターがありまして、国内でも有数な3名の研究者がおります。彼らはこれまでに2000点を超えるくらいの様々な石器の使用痕をみました。が、遺跡内で実験研究とピタリと一致する使用痕だけ存在するという遺跡はありません。まだ何につかわれてできたのかわからない使用痕も多いのです。現実に遺跡を相当数扱うと、実験というフィクションと先史時代の現実である遺跡の石器が、使用痕タイプで相当一致することはありません。もちろん部分的には一致しますが、座散乱木遺跡の使用痕は、典型的使用痕タイプが揃っているわけであります。つまり実験使用痕研究の教科書みたいであります。

 興味深い問題点、その2。

 座散乱木遺跡二次調査は後期旧石器時代の捏造でありますが、現実の旧石器というのは石器表面が風化や土で荒れておりまして、その結果、条件のよいところで全出土石器の3割程度の使用痕しか観察できないといわれています。ところが座散乱木遺跡の二次調査の石器は全出土の6割という数値がでています。通常の2倍以上の使用痕検出率です。

興味深い問題点、その3。

 朝日新聞に、河合信和さんという科学ジャーナリストがおられます。河合さんは座散乱木遺跡二次調査について捏造という確信をもたれており、その理由は、紛れもない縄文時代の石錐、つまりドリルですね、穴をあける石器、これが出土しているからです。日本の考古学者の誰がみても縄文時代のドリルですが、なんでこんなものが出土したのか。ここが非常に大事です。
 河合さんの理解は、藤村さんが石器音痴だったので、縄文と旧石器の区別がつかないで埋めたということであります。一見、もっともです。
 しかし、使用痕研究の歴史を知っている者にとっては、これは重大なことであります。
 高倍率の使用痕研究は、先ほど申しあげましたが、オックスフォードのキーリー教授に芹沢長介先生は教わります。キーリーさんは、77年にベルギーのメーア遺跡を掘って、78年に発掘調査報告書がでます。
 つまり、座散乱木遺跡の発掘1年前にベルギーのメーア遺跡の報告書がフランス語で出版されます。これは当時も今も入手は非常に困難。また、そんな遺跡があるなんて、普通に日本のことを勉強していたらわかりません。
 そして、座散乱木遺跡で出土したドリル、河合さんが縄文だと言い切ったドリルとそっくりの石器がメーア遺跡には出土しています。
 それでメーア遺跡と座散乱木遺跡二次調査の石器を比べると、他の石器もそっくりの形をしています。使用痕研究も、石器の形も、同じ。
 まさに、座散乱木遺跡二次調査は、ベルギーのメーア遺跡のコピーともいえるほどそっくりです。メーアのコピーなら、河合さんの指摘する縄文のドリルが出土しても不思議でない、いや不思議でもなく、偶然でもなく、これは必然です、と私は理解しています。

 興味深い問題点、その4。

キーリーさんの研究と梶原さんの研究は全く同じです。メーア遺跡をつかったキーリー論文は79年の12月に英語で発表されます。座散乱木遺跡をつかった梶原論文は81年に発表されます。この時点では、もちろんキーリーさんの研究のほうが早いわけで、先取権はキーリー論文にあります。
 ところが、キーリー論文が79年12月なのに、座散乱木遺跡の発掘は79年の10月です。キーリー論文より2ヶ月も早い座散乱木遺跡の発掘調査の成果は、キーリー論文と実によく似た内容をもっています。これは非常に重大です。
 座散乱木遺跡の発掘が論文発表よりも早いのに、両者は一致しているわけです。
 メーア遺跡の報告書は78,年に出版されていますが、それはフランス語でかかれており、さらに使用痕の遺跡内分布については詳細な記述はありません。
 だから79年12月のキーリー論文を読むまでは、普通ならば誰もメーア遺跡の使用痕研究についてのキーリーの研究の詳細は知らないのです。
 しかし、座散乱木遺跡二次はメーア遺跡にそっくりで、しかも発掘結果はキーリーさんの研究にそっくりです。
 これは、座散乱木遺跡がメーア遺跡のコピーであると同時に、メーア遺跡をあつかったキーリーさんの論文が公式発表以前に、リークされていたとしか考えられません。
 仮に、キーリー論文が発表された以後に、使用痕の部分だけを捏造したなら、これは藤村新一ができることではありません。いずれにしろ、座散乱木遺跡二次調査の成果がメーア遺跡とキーリー論文にそっくりという点は、藤村新一に到底不可能なことは明白です。

 以上4点を総合しますと、座散乱木遺跡は、メーア遺跡とキーリーの使用痕研究のコピーであり、それはキーリー論文の内容を公表以前に知っている人物で、メーア遺跡は英語とフランス語で書かれていますから、語学ができるか、もしくはキーリーさんの情報を詳しく入手でき、さらに実験使用痕研究が実際に実行可能な人物でなくては、座散乱木遺跡の使用痕研究は不可能である、という可能性があると、私は思うわけです。

  繰り返しますが、芹沢長介先生が使用痕研究をキーリーさんに教わり、その薫陶を受けた梶原さんが実験使用痕研究を確立させたのは学史的な事実です。
 その梶原さんが芹沢先生の指導をうけながら、座散乱木遺跡の二次調査を行い、調査報告書を執筆しているわけであります。
 
 最後に、座散乱木遺跡第一調査について述べておきます。一次調査は76年に行われています。76年というのは、石器文化談話会が発足した年でもあります。 座散乱木遺跡一次調査は縄文時代草創期の調査です。縄文時代草創期は、日本列島に数多くの遺跡や遺物があり、前期旧石器とちがって珍しくありません。 
 そして、座散乱木遺跡の第一調査の特筆すべき点は、ウマの顔をかたどった土製品、ウマの土偶みたいなものが出土している点です。
 このウマは、捏造後に江戸時代以後につくられた可能性があるとされています。なんで珍しくない縄文草創期の遺跡を捏造したのか、それは、座散乱木遺跡一次調査の目玉であるウマの顔の土偶に秘密がありそうです。
 
 文献をみてみますと、74年に講談社から「古代史発掘 最古の狩人たち」という名著が出版されます。その先史時代の巻きを執筆したのは芹沢長介先生。その中に、チェコのドルニ・ヴェストニッチェ遺跡が大きく紹介されて、そこはウマとかシカ、クマなどの動物首の土製品がいっぱい出土したと写真付きで書かれています。
 芹沢長介先生は、日本列島とヨーロッパの先史時代は、世界史的にみてほぼ同じ文化が榮ており、先史ヨーロッパ文化の一部は北回りで日本列島にきたとお考えですから、ドルニ・ヴェストニッチェ遺跡の動物土偶は、座散乱木遺跡で見事に出土しているわけであります。
 芹沢先生は先史時代の世界観を古代史発掘で書いておられますが、その証拠が座散乱木遺跡一次調査で見事に出土したわけでありますし、東北81年の東北歴史資料館の特別展のパンフレットの裏表紙を飾っている特筆される発掘成果です。
 以上、長々と、中期旧石器、後期旧石器と使用痕研究、縄文草創期というように3つの事例をあげましたが、この事例こそ、捏造事件の本質中の本質を示すと考えております。またこれらの遺跡を含めて、その他の遺跡も、仮説を現実化するための何らかの役割をもっていたと、わたしは考えております。
 そして、それぞれの捏造遺跡の果たした役割の束こそが、この捏造事件の構造を示していると、私は考えております。

 以上を総括しますと、仮説や理論をもとにした研究がありました、学術発掘を行いました。仮説や理論と学術発掘の成果はピタリと一致します、ということです。仮説や理論を発掘調査によって現実化しているわけであります。また、その仮説の裏付けには、必ず西欧の先行研究事例が引用されています。1962年に、岩波講座日本歴史23巻の第1巻「原始および古代(1)」が刊行され、芹沢先生は「ようやくにして、無土器時代のかわりに旧石器時代という用語を使うことが、より妥当になってきた」と述べられています。ここには何万年も前の先史時代を考えるときに、人類の進化と文化の歴史を混同した先験的な思いこみがあるような気がします。
 つまり世界の旧石器文化は地域を越えて生物のように進化したのだ、という思想がここにはみられるとおもいます。この思想のもとに、日本列島には実際存在しない遺跡が捏造されたのが、この捏造事件の本当の本質であり、捏造遺跡はほぼすべてこの本質にもとづいた「ある役割」をもっていると、私は考えております。その役割の束を捏造事件の構造と呼びたいのですが、この構造そのものは戦中から戦後にかけての「国家」や「民族」の起源という思想背景をもとに解くべき問題であり、現在追求中であります。
 
4  捏造事件から学ぶ考古学

 さて、最後になりますが、捏造事件から学ぶ考古学という点をお話申しあげます。
 2000年11月5日、毎日新聞さんのスクープをみて、全国民にちかい人が捏造事件に怒りの声をあげました。このインチキ発掘に怒りの声をあげました。
 これは、考古学とは事実を明らかにする学問である、と専門家以外の人が正確に認識していた結果だと思いますし、また事実を明らかにする考古学こそ、望まれている考古学であると思うわけです。
 ところで、私が申しあげましたように、捏造事件というのは、学説をつくるために発掘事実を捏造しているわけですから、これは望まれている考古学とは全く違う、むしろ最もやってはいけない考古学であったわけです。
 お怒りになった方々の中には、おそらく熱烈な考古学ファンもおられたことと思います。そのファンの方は必ずしも大学で専門に勉強なさったとは限らない、むしろ学校の勉強とは全く関係のない方も多いかと思います。
 そして、なぜ考古学にファンが多いのかといえば、自分の興味ある遺跡や遺物について、自分なりに追求する楽しさがあるからでしょう。
 事実を調べて、事実から自分なりのモデルを組み立て、そして次の事実で自分の考えをあらためていく、また確信していく。これは難しい数式や外国語の習得ではなく、学校の勉強とは違って、歴史事実を自分なりに調べ、そして整理し、歴史を解いてゆく楽しみです。
 こうした、考古学の楽しさを知っている方というのは、知識だけでなく、実際の事実という点について、その重みを十分にご承知かと思います。
 だからこそ、インチキは許せないわけです。
 現代の考古学というのは、こうした点をふまえると、専門家だけのものではなく、むしろ大勢のファンの方のものでもあるということになるのかと思いますし、これが考古学の大切さであり、社会性ではないでしょうか。

 それでは、専門家というのは何をする人なのか、といえば、これは発掘調査をし、発掘調査報告書をつくり、歴史の基礎的な事実を調べてゆく人ということになるかと思います。いうなれば、基礎的事実を提供することを本業として、どうやったら事実がわかるのか、そしてその事実はどの事実と結ばれるのか、こうした非常に専門的で確実なことを行うのが考古学の専門家ではないかと思います。
 その専門家の明らかにした事実をもとに、大勢の考古学ファンの皆さんが自由に議論をされる。まさに現代の考古学のもつ社会性とはそういうものではないかと思います。
 そして、捏造事件は、一握りの専門家が、自分の学説や世界観だけで先史時代をつくりあげようとし、国民や国を騙すために、解釈の捏造ではなく、発掘事実を捏造した非常に凶悪で、恐ろしい事件であると思います。 
 人間の文化の歴史というのは、どの時代、どの地域をとっても固有であります。その文化の固有の歴史の事実を明らかにし、その事実を積み重ねることでのみ、私達は歴史を解くことが可能であると思います。

 発掘事実を捏造するという巧妙な捏造が暴かれた今、私達は事実を大切にする考古学を推進するべきであると思い、専門家の一人として、事実を大切にする考古学を訴え、そこに向かう研究に邁進したいと思っています。
 考古学が国民の皆様に愛され、信頼性を取り戻すために、事実を大切にする専門家の一人として、努力を続けたいと思います。
 奥野先生にはこのような機会を与えていただき、心より御礼を申し上げます。またご静聴くださいました皆様に御礼を申し上げます。

5  捏造に気が付いた契機とホームページの公表の経緯

 先ほどお話した前半と後半では、後半の遺跡は滅茶苦茶であったわけです。わたしも捏造だと確信したのは後半の遺跡を検討してからでした。
 そこで、私が捏造発覚以前に、インターネットで批判を書いたきっかけなどを少しお話ししておきましょう。 
 最初に捏造という話がでましたのは、1996年に山形県の富山遺跡に竹岡先生と一緒に石器を見に行った晩であります。
富山遺跡は、ご承知のかたもいらっしゃると思いますが、竹岡先生が本物の前期・中期旧石器と認められた石器です。しかし、異論もありますし、私も考えるところがありますので、ここでは富山遺跡の評価は横においておきましょう。
 その当時、わたしは竹岡先生に石器を一から教わり直しておりまして、竹岡先生が私の家庭教師であったわけであります。それで、先生と二人で山形県埋蔵文化財センターの鈴木良仁さんのところに行って富山遺跡の石器を分類したわけです。
 先生は富山遺跡をみて、非常に驚かれて、私にも石器を選択しろと仰るわけです。それで小さな剥片なんかをちらちらとみていると、バカ者、この石器は強い力で大きく石を剥ぎ取っているのが特徴だ、そんなどうでもよいものは無視しなさい、といわれたわけです。目から鱗とはこのことでした。
 そしてその晩に、先生は、富山遺跡は本物である、リュムレイ先生に見せたら喜ぶだろうと仰るので、先生、日本の前期旧石器はあんなんじゃないですよと私は言ったのです。それから群馬県の大工原豊さんが、桐原遺跡をみにいって、あれはインチキだと見破って、後半の藤村石器は捏造だって公言されていまして、そのお話もしました。その頃は、捏造後半の遺跡については疑いつつありまして、それは大工原さんのご教示によるものです。
 それで、竹岡先生に、僕の掘った馬場壇A遺跡は捏造じゃなくて、本物ですよ、藤村さんと朝早く行って馬場壇A遺跡20層から石器をだしました、藤村さんに色の変わっているところを掘りなさいっていわれて3つぐらいだしました、って言ったとたんに、お前はバカだな、そりゃ捏造じゃないかって竹岡先生に叱られました。私はそのときに、「なんてことを竹岡先生は言うんだ」という気持ちと、もしかしたらという気持ちがあったのですが、そのころは信じていたのですね。まったく馬場壇A遺跡教の信者であったわけです。
 しかし、その頃は疑いをもちつつ、ひょうたん穴遺跡の発掘に参加したり、押圧剥離がついている袖原遺跡の石器をみせてもらって、だんだん変だなあとおもってきたわけです。
 ウチの会社は、最初は考古学専攻生がおりませんでしたから、考古学実習の代わりに、鎌田俊昭さんのご厚意で、捏造後半の遺跡に会社で参加させていただいていたのです。
  ひょうたん穴の奥で、ウチの社員が土をあげていて、目の前で藤村さんも掘っていたのです。発掘が終わって、その社員に、藤村さんが石器をだしたときに移植コテにあたる音がしたかって聞いたのです。そしたら、藤村さんは背中を向けていて、いきなり出たぞって石器を手に持っていたと。
 それからひょうたん穴の宴会のときに、「明日は石器を出さなくちゃ、出さなくちゃ」と藤村さんが僕の横で呟いていたりしました。
 後半の石器は怪しいと思うようになっているところに、そんなことがいくつかあって、次第に疑念がつのって、藤村さんはもしかしたら最初からやってるのじゃないか、藤村さんしか石器をみつけていない、竹岡先生も馬場壇A遺跡は捏造と仰っていたし、と頭の中でグルグルまわって、1998年ごろには、縄文の押圧剥離のある石器があるから石器がダメなので、これはすっかりダメだろうという気持ちになったわけです。
 私は鎌田俊昭さんや藤村さんと親しかったわけですが、自分で確信したからには、人にあうごとにダメといっておりました。ところが1999年に鎌田俊昭さんの自宅にお招きをうけました。それで晩ご飯いただいた後に、藤村さんが鎌田宅にやってきたのです。
 鎌田さんが、「藤村君は、今日は退職されて会社の宴会のあとで、わざわざ君に会いに来たんだ」だと言われたのです。
 「それで、角張君、君は藤村君を疑っていると聞いたが、藤村君の目の前で嘘だと言ってくれ」と鎌田さんが仰いました。私は、「藤村さん一人が石器をみつけるのはおかしい」と言ったのです。藤村さんは目をふせて、「帰る」と一言いって、タクシーで帰られました。鎌田さんは、ダメだといっている僕を責めないで、こうした機会をもってくれたわけです。
 藤村さんとも親しくて、僕は学生のころ藤村さんとであって、すごく目をかけられたのです。僕も藤村さんが大好きでした。83年ごろ、学生の僕に、石器文化談話会の勉強会のレジュメを藤村さん自身で綴じた『大崎地方の旧石器文化』という冊子を「僕にはもう必要ないから、角張君、これで勉強しなさい」と言ってくれたのです。それから僕は大学を卒業してから親父のスーパーマーケットに就職したのですが、スーパーの仕事がどうしてもあわないで腐っていときに、仙台で会って、東北歴史資料館で出版した『江合川流域の旧石器-宮城県江合川流域旧石器時代遺跡分布調査報告書』(1985)の裏表紙にサインをしてくれました。「恵存 角張淳一学兄 考古学研究後続を念じて比書(ママ)を贈ります。S60.5.18 藤村新一」。
 藤村さんは、私に考古学研究を続けるようにと、心から励ます気持ちでこの本にサインをしてくれたと思います。このサインは、考古学にたいして微塵の疑念がない、まさしく信念に燃えている言葉、そして友人を思う優しい言葉としか思えません。
 藤村さんとは、その後も年賀状のやりとりや、年に一回ぐらいの電話とのお付き合いがありました。だから、藤村さんが捏造をしていると確信したとき、私は悔しくて、悔しくて、しかたありませんでした。そして、考古学を馬鹿にしているんじゃないかと憤りました。藤村さんと一緒にやってきた、鎌田さんや岡村さんは騙されているのだ、なんとか目をさましてもらいたいと思いました。丁度、竹岡先生から連絡があり、状況が悪すぎるから新聞でたたくと仰っていて、竹岡先生が本気でやろうとしていることがわかりました。僕は、竹岡先生よりずっと以前から藤村さんを知っています。そしてホームページの文章(「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」)を書きました。公表をためらい、その文章を鎌田さんに郵送して、鎌田さんの判断をあおごうと思いました。
 でも1週間以上たっても返事がこない。もうダメだ、完全に無視されている、目をさましてもらえないと思いました。
 鎌田さんを動かすことができなければ、どうしようもない、藤村さんを止められない。それならば藤村さんが竹岡先生に刺される前に、せめて自分がなんとかしたいという気持ちで、あのホームページの文章の公開を決意したのです。自分がプロとして石器の整理業務を委託されてもおりますし、自分の職業倫理とか、いろいろな状況が重なり合ってホームページの文章を公開しているわけであります。まだ、いろいろありますが、とりとめがなくなってしまいましたので、このへんで終わりにします。
 この事件を調べていくうちに、藤村さん個人の仕業で不可能な事実がポツポツとわかりはじめたここ数年の間、私は藤村さんを恨む気持ちは全く失せてしまいました。藤村さんを弁護するつもりはありませんが、彼一人にだけ全責任があるとは考えられません。
 むしろこうした捏造事件がおきたことに対して、歴史的にこの事件を明らかにしたい、それこそが日本の考古学にとって本当の意味の解決なるという気持ちでいっぱいです。
 ご静聴、ありがとうございました。