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筑紫古代文化研究会の紹介 1972 年、高松塚古墳の発見を機に、日本の古代史を東アジアの視点から見直そうと、稲作文化が最初に開花した筑紫(福岡)の地で誕生しました。以来37年間、奥野正男(元宮崎公立大学教授)を会長に、弥生・古墳文化論、鉄器・青銅器文化論、邪馬台国九州論、吉野ヶ里遺跡・女王国都論、三角縁神獣鏡の国産論、日本と朝鮮の文化交流史、飛鳥文化論などをテーマに考古・歴史研究と遺跡見学会を重ねてきました。旧石器捏造事件の真相をレポートした奥野の著書『神々の汚れた手』梓書院刊は、第58回(2004年度)毎日出版文化賞を受賞しました。

奥野正男の考古学・古代史論の紹介(本ホームページの「研究テーマ」で解説)
1、邪馬台国は九州、女王・卑弥呼の都は吉野ヶ里遺跡である。(1『邪馬台国はここだ』、2『邪馬台国はやっぱりここだった』毎日新聞社、3『吉野ヶ里遺跡の謎』、4『邪馬台国発掘』PHP研究所。
2、日本の古墳文化は伽耶系の渡来文化(陶質土器、馬具、鉄製武器・甲冑、横穴式石室)の普及で発展した(5『騎馬民族の来た道』毎日新聞社、6『騎馬民族と日本古代の謎』大和書房)
3、古事記・応神天皇段の韓鍛・卓素(からかぬち・たくそ)の伝承は、大宝2年の筑前・嶋郡戸籍の研究で、怡土郡高祖在住の宅蘇吉士(たくそ・きし)とわかる(7『日本文化と朝鮮3』 新人物往来社)。この仮説は、30年後、福岡市西区の元岡製鉄遺跡の発見で完全に立証された。元岡遺跡から28基一列に並んだ製鉄炉群と「壬辰年韓鐵□□」という木簡が出土した。「壬辰年」は752年に、「韓鐵□□」の空白は、韓鐵師、韓鐵治(からかぬち)を充てうる。
4、弥生時代の鉄器は1981年、著者が10年がかりでまとめた「弥生時代鉄器出土地名表」を単行本(前掲書1)発表。全国総数の99%が九州からの出土であることを、確実な考古資料から提示し、それを邪馬台国九州説のひとつの根拠とした。これに対し、佐原真氏は「近畿に鉄器が少ないのは、鉄が腐るからだ」という反論を新聞・テレビなどで展開し、腐る鉄器の比較はやめて、腐らない青銅器での比較をしようと主張した。しかし、その後、出雲で全国総数をこえる銅鐸・銅剣が一挙に出土し、九州・佐賀でも古式銅鐸の鋳型が出るに及び、佐原氏は、近畿の銅鐸職人が鋳型を携えて地方に行って製作したという、近畿の職人移動説を主張した。
弥生時代の鉄器の分布は、20数年後、 広島大学が「弥生時代鉄器出土地名表」を作った。その結果は、出土総数は増加したが、九州と近畿の鉄器保有率は変わらないという結果が出た。(「鉄器の普及と生産力・軍事力」8『邪馬台国紀行』海鳥社)
5、戦後、確たる歴史理論をもたなかった日本の考古学界は、アメリカ考古学の影響をじわじわ受け、存在しない物を実在したかのように言いくるめる理論の創出(デベート主義)が浸透していた。三角縁神獣鏡の伝世説・配布説(小林行雄)がその聖典で、景初四年鏡の年賀状説(都出比呂志)、大阪弥生博物館の卑弥呼の館レプリカ製作と教科書掲載がその最悪例である。
奥野はこれを大和中心主義から演繹された、学問とは異質の主張、似非考古学理論であると判断し、持論である邪馬台国の東遷を考古資料で跡付ける研究に進んだ。(9『考古学からみた邪馬台国の東遷』毎日新聞社、10『邪馬台国は広域統一国家ではなかった』、11『邪馬台国は古代大和を征服した』JICC出版局)
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