プロフィール


活動方針


研究テーマ


読書の感想


訪ねた遺跡


著作目録


旧石器捏造


遺跡めぐり


会の歩み


ブログ

更新
更新記録


ブログ



奥野正男著作集の刊行が始まりました。
梓書院刊(〒811−0044福岡市博多区千代3−2−1Tel:092-643-7075)

      
      











奥野正男著作集T(全五巻) 発売中

邪馬台国はここだ』ー吉野ヶ里はヒミコの居城ー
   定価3、800 A5版・並製

作者の言葉
 (一)

 この著作集第1巻には、私の文献(魏志倭人伝)と考古学(鉄と銅鏡)の研究があいまって、卑弥呼の墓は平原、その居城は吉野ヶ里遺跡、「銅鏡百枚」は後漢鏡という先人未踏の結論にたどり着いたことを、巻末の解説論文で記しています。
 拙論の特徴を一言でいえば、文献研究の結論と考古学研究の結論とが矛盾なく一致しているということです。また、第1巻に収録した私の『新釈・魏志倭人伝』は、漢字の新釈文のほかに、例えば「卑弥呼の墓」、「卑弥呼の都」、「銅鏡百枚」のような言葉について、弥生時代の遺跡や遺物で語る新しい注釈をつけました。

 (二)

 文献の研究では、白川静の漢字学で解いた魏志倭人伝の「卑彌呼」と「伊都国の世々の王」との「統属」関係をキーワードにして、明治以来、老衰死一色に包まれていた卑弥呼の死因(以って死す)を解き明かしました。卑弥呼の死より先に、帯方郡使・張政らは、狗奴国との敗戦の責任を追及し、卑弥呼を死に追い込んだという説はすでに松本清張が先鞭をつけています。私は魏志の文例をあげて(それがために死す)と読みました。その後20数年間、私の説はほとんど日の目をみることもありませんでしたが、2004年に、岡本健一氏(京都学園大学)が二十五史・十三経の電子テクスト版から891段の「以死」を含む用例をを抽出し、松本清張や奥野のように「以って死す(それがために死す)」と読む例が断然多いという研究(注1)を発表したのです。 岡本氏の研究にはげまされて、この著作集の発刊となりました。
注1:岡本健一『蓬莱山と扶桑樹』2008年

(三)

 新世紀に入ってから中国・韓国・日本で発展した東アジアの国際関係史の新しい研究成果(注2)を学ぶなかで、私は自分に欠けていた一つの視点に気づきました。卑弥呼を退位させ、宗女・壱与の親魏政権を立てたのが、帯方郡使・張政を中心にした卒善中郎将・難升米ら十人の魏の外臣たちであるということです。新しい研究では、三四世紀の魏・晋朝いご唐代までの歴代王朝は、周辺地区の異民族の統治方法として、遣使国の吏民に卒善中郎将・卒善校尉などの官爵を与えて外臣とし、郡吏と外臣団を中核とした政権をつくって東夷の諸民族を支配下に置いてきました。これを中国王朝の周辺諸民族にたいする羈縻(きび)政策といいます。羈縻とは、馬や牛に轡や鼻鉗を付けて縛りつけ、手綱で思うように動かすことをさしています。
注2:大場脩「三.四世紀における東アジア諸族の動向」『親魏倭王』学生社1971年。西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』1983年。堀敏一『東アジア世界の歴史』2008年講談社学術文庫。李成市『東アジア文化圏の形成』2003年山川出版社。蘇哲『晋魏南北朝壁画墓の世界』2007年

(四)
 日本の邪馬台国論争は、二十一世紀に入った現在でも、“明治の内藤説がいちばん正しい”』(注3)という歴史学者の主張が繰り返されています。内藤湖南の大和説は、里程・日程記事の「南」を「東」に書き改め、帯方郡から不弥国までの「1万700里」に、投馬国までの「水行二十日」と、邪馬台国・女王の都までの「水行十日・陸行一月」を加えて、その合計里数が「1万2000里」になり、大和に達するという算法です。
 わたしはこの内藤説を近所の小学校5、6年の教室で話すと、子供から言われました。
「先生、里数と日数は足し算できないです」と。
先生からも「日本の学者が皆そう言っているというのは再考の余地がある」と言われました。「子供の学問に対する信頼性を裏切るから、今の学者も言っていると言うのはこまる」というのです。
それで私は「明治時代に大和説の学者がそう言っていました」と言うようにしています。
(注3)西本昌弘「邪馬台国論争」日本歴史学会編集『日本歴史』700号2006年

(五)

 魏志に「径百余歩」「大作冢」「有棺無椁」とある卑弥呼の墓が、「銅鏡百枚」の研究から日本一の大鏡5面と35面の後漢鏡をもつ伊都国の平原遺跡であることを突き止めました。
また、本書では「楼観」「城柵」「邸閣」のある卑弥呼の居城が、魏志の行程記事から「伊都国の南、千五百里」にあることを始めて指摘しています。
第1に入れた『邪馬台国はここだ』1981年が出たのは、吉野ヶ里遺跡の発掘が始まるよりも七年も前のことです。

(六)
 卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」は、平原遺跡から出た「方格規矩四神鏡」と「長宜子孫銘内行花文鏡」を中心にした後漢鏡であることを明らかにしました。発掘当時、平原鏡を「漢中期の鏡」とした原田説に対し、九州の考古学者は大型国産鏡が作られる古墳時代の前期としていました。
 90年代、新しい古代国家論の創出をはかった都出比呂志氏(大阪大学)は、戦後日本人の国家観の深層に横たわる明治憲法以来の万世一系の天皇観に代わるものとして、大和ではじまる天皇陵をふくむ大型前方後円墳の等質性を基盤にして、魏志の「銅鏡百枚」を三角縁神獣鏡としこれと供伴する後漢鏡を大和の弥生時代から存在した鏡とする小林行雄氏の「伝世鏡」論を合体させた「前方後円墳体制論」を構築しました。以後、日本の邪馬台国論争をふくむ、2〜3世紀の古代国家論は、邪馬台国から大和政権へという一つのパターンが出来上がりつつある現状です。
 一方、前述の40枚の後漢式鏡を持つ平原王墓の年代観は、弥生後期終末あたりに落ち着いていますが、九州の弥生墳丘墓の一つ、久留米祇園山古墳の回りにある陪葬甕棺墓にも、破砕された画紋帯神獣鏡が出土していますが、「長宜子孫銘内行花文鏡」は依然として甕棺から出ないのです。つまり、平原王墓の後漢鏡の年代は、限りなく弥生時代と古墳時代の間(庄内期)に近いといえるでしょう。

(七)
 吉野ヶ里遺跡の南内郭(長方形の周壕をめぐらす集落)が廃絶して墓地(前方後方形墳丘墓)にかわる庄内期に、平原遺跡から出た「方格規矩四神鏡」や「長宜子孫銘内行花文鏡」を中心にした200面近い後漢鏡が九州北部から瀬戸内海の沿岸地域を経由して大和の纏向遺跡(ホケノ山古墳)まで拡散するのです。後漢鏡の東漸というこの事象を、私は邪馬台国の卑弥呼のいた都(吉野ヶ里)が女王壱与の時代に大和の纏向に移動した(東遷)と見ています。これは前期古墳に三角縁神獣鏡が出現する以前のできごとです。
また庄内期に、後漢鏡やこれを副葬する墳丘墓が瀬戸内海沿岸を経て大和に拡散するということは、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とし、弥生時代の後漢鏡が大和で「伝世した」(大和にも九州と同様に多数の中国鏡が入っていたが、墓に副葬する習慣がなかったので、古墳時代まで伝世した)という小林説の崩壊を意味する事実なのです。しかし、日本の考古学界は
なお、中国から三角縁神獣鏡が一面も出土しないという事実を否定しつづけながら、「特鋳説」を繰り返しています。日本の考古学界を代表する学者が、すでに中国不出土で破産した「銅鏡百枚は三角縁神獣鏡」(注4)という30年前の旧説を繰り返しています。
(注4)佐原真『魏志倭人伝の考古学』岩波現代文庫2009年6刷。西谷正『魏志倭人伝の考古学』学生社2009年。

吉野ヶ里遺跡での最近の発掘成果

筑紫古代文化研究会
(奥野正男会長)は、1972 年、高松塚古墳の発見を機に、日本の古代史を東アジアの視点から見直そうと、福岡で誕生しました。いらい37年間、考古・歴史学の研究と遺跡研究会を重ねてきました。この間に弥生・古墳文化論、鉄器・青銅器文化論、邪馬台国九州論、吉野ヶ里遺跡・女王国都論、三角縁神獣鏡の国産論、日本と朝鮮の文化交流史、飛鳥文化論などをテーマにした奥野の著書は50冊にのぼります。旧石器捏造事件のレポート『神々の汚れた手』(梓書院刊)は、2004年度第58回毎日出版文化賞を受賞しました。
吉野ヶ里遺跡は、発掘された八年も前から奥野が魏志倭人伝の研究を通じて、「女王国の都」としてきた遺跡です。国の史跡になった現在も発掘がつづいており、壱岐・原の辻遺跡と並んで、魏志倭人伝に描かれた弥生後期の邪馬台国や女王の都城の実態を示す重要な遺跡
です。
東アジアの古代文化を考える会(奥野正男会長)は972 年、騎馬民族説をかかげた江上波夫(東大教授)を会長に東京で誕生した歴史愛好者の全国組織です。江上氏の没後、奥野が会長をうけついでいます。(事務所〒101−0065東京都千代田区西神田2−4−6 宮川ビル2F пEFax03−5226−5544 ホームページhttp://homepage2.nifuty.com/e-asia/)
邪馬台国を考える会
(奥野正男会長)は、 2009年の4月19日に、佐賀県で発足した歴史愛好者の会です。佐賀県では、吉野ヶ里遺跡が国の史跡になってからも「望楼に上がれば邪馬台国がみえる」という考古学者の言葉が生きていたようです。しかし、遺跡の発掘と研究がすすむ中で、考古学研究者のなかにも邪馬台国九州論者が現れるという異変が起きはじめているようです。
「二十年ほど前までは邪馬台国は畿内にあると思っていた。ところが最近は九州ではないかと思っている。長年、吉野ヶ里遺跡を発掘してきたが、ここ数年はもしかしたら邪馬台国を掘ってしまったのではないかもと考えるようになった。魏志倭人伝に書いてあることがそのまま出てきたような感じだからだ」(七田忠昭「新・吉野ヶ里シンポジュウム」『佐賀新聞』2005年10月29日)
この会は「吉野ヶ里こそ女王・卑弥呼の都 邪馬台国の最有力候補」という説をひろげようという会です。この会の活動や講演会・講座の案内は、当分の間、本ホームページ「古代史の窓」でお知らせしていこうと考えています。詳細は左上の活動方針
クリックしてください。

    

奥野正男の考古学・古代史論
(本ホームページの「研究テーマ」で解説)
1、邪馬台国は九州・筑後川北岸一帯、吉野ヶ里遺跡は女王の都である。(@『邪馬台国はここだ』、A『邪馬台国はやっぱりここだった』毎日新聞社、B『吉野ヶ里遺跡の謎』、C『邪馬台国発掘』PHP研究所。 

2、日本の古墳文化は伽耶系の渡来文化(陶質土器、馬具、鉄製武器・甲冑、横穴式石室)の普及で発展した(D『騎馬民族の来た道』毎日新聞社、E『騎馬民族と日本古代の謎』大和書房) 

3、古事記・応神天皇段の韓鍛・卓素(からかぬち・たくそ)の伝承は、大宝2年の筑前・嶋郡戸籍の研究で、怡土郡高祖在住の宅蘇吉士(たくそ・きし)とわかる(F『日本文化と朝鮮3』 新人物往来社)。私の仮説は、30年後、福岡市西区の元岡製鉄遺跡の発見でほぼ十分に裏づけられた。元岡遺跡から28基一列に並んだ製鉄炉群と「壬辰年韓鐵□□」という木簡が出土した。「壬辰年」は752年に、「韓鐵□□」の空白は、韓鐵師、韓鐵冶(からかぬち)を充てうる。『古事記』の韓鍛(からかぬち)の鍛の語は、鉄打ち→鉄冶→鉄鍛→鍛→鍛冶の変化が考えられる。律令の「雑工戸」の姓として「韓鍛冶」(からかぬち)がある。『続日本紀』養老六(722)年三月十日条。

4、弥生時代の鉄器は1981年、著者がまとめた「弥生時代鉄器出土地名表」を単行本(前掲書@)に発表。全国総数の99%が九州からの出土であることを、確実な考古資料から提示し、それを邪馬台国九州説のひとつの根拠とした。これに対し、佐原真氏は「近畿に鉄器が少ないのは、鉄が腐るからだ」という反論を新聞・テレビなどで展開し、腐る鉄器の比較はやめて、腐らない青銅器での比較をしようと主張した。しかし、その後、九州・佐賀でも古式銅鐸の鋳型が出土し、出雲で全国総数をこえる銅剣・銅鐸が一挙に出土するにいたる。佐原氏は、近畿の銅鐸職人が鋳型を携えて地方に行って製作したという、近畿の職人移動説を主張するにいたる。
弥生時代の鉄器の分布は、20数年後、 広島大学が「弥生時代鉄器出土地名表」を作った。その結果は、出土総数は増加したが、九州と近畿の鉄器保有率は変わらないという結果が出た。(「鉄器の普及と生産力・軍事力」G『邪馬台国紀行』海鳥社)

5、戦後、記紀の皇国史観からの脱出・放棄を余儀なくされた日本の考古学界は、日本政治史の再構築にあたって、登呂遺跡をはじめ稲作農耕の東進をたどる発掘をすすめるとともに、戦前から蓄積のある墳墓資料・前方後円墳とその出土品(勾玉・銅鏡・刀剣・埴輪・石棺)の研究にすすんだ。男系世襲制社会の形成をもって古墳時代の開始とした小林行雄「古墳発生の歴史的意義」(『史林』38−1)や、各地の古墳出土の三角縁神獣鏡を「卑弥呼の魏鏡百枚」とし「同笵鏡の分有関係」によって初期大和政権の伸張を図示した小林行雄の『三角縁神獣鏡の研究』は、1970年代までの考古学界の日本政治史研究のバイブル的論著となった。その延長線上で、中国から出土しない三角縁神獣鏡の特鋳説(田中琢)、前方後円墳体制論(都出比呂志)が提起された。80年代以降は、アメリカの新進化主義にもとづく国家形成論や、構造マルクス主義人類学の立場からの国家形成過程のモデル化が進み、『前方後円墳国家論』(広瀬和雄)、『古墳時代親族構造の研究』(田中良之)、『鏡と初期ヤマト政権』(辻田淳一郎)など新しい政治史理論が提示されている。