二つの百済ー『日本書紀』のひみつー
     
神武即位から百済滅亡まで、倭から日本への隠された歴史

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奥野正男の新講座 (福岡市で開催中)


      


平成天皇は68歳の誕生日を前に、日韓共催のワールドカップで韓国との交流がひろがることを語るなかで、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と語られました(2001年12月18日)。皇室が遠いむかしから百済王家と血縁をもっていたことは、『日本書紀』や『新撰姓氏録』などの史料にも記されています。
『日本書紀』には、「百済三書」という渡来人の記録が引用され、五〜六世紀の倭国と百済・伽耶をめぐる歴史が干支年暦をもちいて詳しくかかれています。蘇我氏が百済から仏教を受けいれ、飛鳥寺を建て、国政をにぎる時期に、継体系の歴代天皇は飛鳥や檜隈に皇居をおくようになります。また、蘇我氏から天皇が出る推古朝以降、天皇陵は前方後円墳から方墳に変化し、陵墓は百済王の後裔・昆伎王を祀る「近つ飛鳥」につくられるようになります。
唐と新羅が連合して百済を滅す(660年)と、斉明・天智政権は唐・新羅連合軍と決戦をいどみ、百済救援に二万七千の大軍をおくりました。しかし、倭国軍は白村江の戦いで大敗します。唐・新羅の侵攻におびえる天智政権は、飛鳥から近江に都を遷し、国民を総動員して各地に山城を築き、戸籍(庚午年籍)をつくって徴兵態勢をととのえます。倭国はまさに「本土決戦」の様相を見せます。
多数の亡命百済貴族に爵位与え、近江政権の閣僚にいれ、国の存亡を賭けて戦争をつづけようとする天智政権にたいし、『日本書記』は詠み人しらずの童謡(わざうた)を掲げるのみです。

 橘は己が枝々なれれども、玉に貫くとき同じ緒に貫く。

滅亡した国家の歴史は闇に葬られるものです。上記の童謡には、隠された百済史のひみつを解くキーワードが読み込まれています。天智崩御のあと、飛鳥政権は親百済派と親新羅派に分かれて、古代最大の内乱といわれる壬申の乱にはいります。天武政権の勝利によって、唐・新羅との新しい外交政策が確立し、国都は飛鳥から藤原京に移り、「日本」という天皇制律令国家の新しい歴史がはじまるのです。

吉野ヶ里遺跡での最近の発掘成果

筑紫古代文化研究会
(奥野正男会長)は、1972 年、高松塚古墳の発見を機に、日本の古代史を東アジアの視点から見直そうと、福岡で誕生しました。いらい37年間、考古・歴史学の研究と遺跡研究会を重ねてきました。この間に弥生・古墳文化論、鉄器・青銅器文化論、邪馬台国九州論、吉野ヶ里遺跡・女王国都論、三角縁神獣鏡の国産論、日本と朝鮮の文化交流史、飛鳥文化論などをテーマにした奥野の著書は50冊にのぼります。旧石器捏造事件のレポート『神々の汚れた手』(梓書院刊)は、2004年度第58回毎日出版文化賞を受賞しました。
吉野ヶ里遺跡は、発掘された八年も前から奥野が魏志倭人伝の研究を通じて、「女王国の都」としてきた遺跡です。国の史跡になった現在も発掘がつづいており、壱岐・原の辻遺跡と並んで、魏志倭人伝に描かれた弥生後期の邪馬台国や女王の都城の実態を示す重要な遺跡
です。
東アジアの古代文化を考える会(奥野正男会長)は972 年、騎馬民族説をかかげた江上波夫(東大教授)を会長に東京で誕生した歴史愛好者の全国組織です。江上氏の没後、奥野が会長をうけついでいます。(事務所〒101−0065東京都千代田区西神田2−4−6 宮川ビル2F пEFax03−5226−5544 ホームページhttp://homepage2.nifuty.com/e-asia/)
邪馬台国を考える会
(奥野正男会長)は、 2009年の4月19日に、佐賀県で発足した歴史愛好者の会です。佐賀県では、吉野ヶ里遺跡が国の史跡になってからも「望楼に上がれば邪馬台国がみえる」という考古学者の言葉が生きていたようです。しかし、遺跡の発掘と研究がすすむ中で、考古学研究者のなかにも邪馬台国九州論者が現れるという異変が起きはじめているようです。
「二十年ほど前までは邪馬台国は畿内にあると思っていた。ところが最近は九州ではないかと思っている。長年、吉野ヶ里遺跡を発掘してきたが、ここ数年はもしかしたら邪馬台国を掘ってしまったのではないかもと考えるようになった。魏志倭人伝に書いてあることがそのまま出てきたような感じだからだ」(七田忠昭「新・吉野ヶ里シンポジュウム」『佐賀新聞』2005年10月29日)
この会は「吉野ヶ里こそ女王・卑弥呼の都 邪馬台国の最有力候補」という説をひろげようという会です。この会の活動や講演会・講座の案内は、当分の間、本ホームページ「古代史の窓」でお知らせしていこうと考えています。詳細は左上の活動方針
クリックしてください。

    

奥野正男の考古学・古代史論
(本ホームページの「研究テーマ」で解説)
1、邪馬台国は九州・筑後川北岸一帯、吉野ヶ里遺跡は女王の都である。(@『邪馬台国はここだ』、A『邪馬台国はやっぱりここだった』毎日新聞社、B『吉野ヶ里遺跡の謎』、C『邪馬台国発掘』PHP研究所。 

2、日本の古墳文化は伽耶系の渡来文化(陶質土器、馬具、鉄製武器・甲冑、横穴式石室)の普及で発展した(D『騎馬民族の来た道』毎日新聞社、E『騎馬民族と日本古代の謎』大和書房) 

3、古事記・応神天皇段の韓鍛・卓素(からかぬち・たくそ)の伝承は、大宝2年の筑前・嶋郡戸籍の研究で、怡土郡高祖在住の宅蘇吉士(たくそ・きし)とわかる(F『日本文化と朝鮮3』 新人物往来社)。私の仮説は、30年後、福岡市西区の元岡製鉄遺跡の発見でほぼ十分に裏づけられた。元岡遺跡から28基一列に並んだ製鉄炉群と「壬辰年韓鐵□□」という木簡が出土した。「壬辰年」は752年に、「韓鐵□□」の空白は、韓鐵師、韓鐵冶(からかぬち)を充てうる。『古事記』の韓鍛(からかぬち)の鍛の語は、鉄打ち→鉄冶→鉄鍛→鍛→鍛冶の変化が考えられる。律令の「雑工戸」の姓として「韓鍛冶」(からかぬち)がある。『続日本紀』養老六(722)年三月十日条。

4、弥生時代の鉄器は1981年、著者がまとめた「弥生時代鉄器出土地名表」を単行本(前掲書@)発表。全国総数の99%が九州からの出土であることを、確実な考古資料から提示し、それを邪馬台国九州説のひとつの根拠とした。これに対し、佐原真氏は「近畿に鉄器が少ないのは、鉄が腐るからだ」という反論を新聞・テレビなどで展開し、腐る鉄器の比較はやめて、腐らない青銅器での比較をしようと主張した。しかし、その後、九州・佐賀でも古式銅鐸の鋳型が出土し、出雲で全国総数をこえる及び銅剣・銅鐸が一挙に出土するに及び、佐原氏は、近畿の銅鐸職人が鋳型を携えて地方に行って製作したという、近畿の職人移動説を主張するにいたる。
弥生時代の鉄器の分布は、20数年後、 広島大学が「弥生時代鉄器出土地名表」を作った。その結果は、出土総数は増加したが、九州と近畿の鉄器保有率は変わらないという結果が出た。(「鉄器の普及と生産力・軍事力」G『邪馬台国紀行』海鳥社)

5、戦後、記紀の皇国史観からの脱出・放棄を余儀なくされた日本の考古学界は、日本政治史の再構築にあたって、登呂遺跡をはじめ稲作農耕の東進をたどる発掘をすすめるとともに、戦前から蓄積のある墳墓資料・前方後円墳とその出土品(勾玉・銅鏡・刀剣・埴輪・石棺)の研究にすすんだ。男系世襲制社会の形成をもって古墳時代の開始とした小林行雄「古墳発生の歴史的意義」(『史林』38−1)や、各地の古墳出土の三角縁神獣鏡を「卑弥呼の魏鏡百枚」とし「同笵鏡の分有関係」によって初期大和政権の伸張を図示した小林行雄の『三角縁神獣鏡の研究』は、1970年代までの考古学界の日本政治史研究のバイブル的論著となった。その延長線上で、中国から出土しない三角縁神獣鏡の特鋳説(田中琢)、前方後円墳体制論(都出比呂志)が提起された。80年代以降は、アメリカの新進化主義にもとづく国家形成論や、構造マルクス主義人類学の立場からの国家形成過程のモデル化が進み、『前方後円墳国家論』(広瀬和雄)、『古墳時代親族構造の研究』(田中良之)、「威信財システム」理論による『鏡と初期ヤマト政権』(辻田淳一郎)など新しい政治史理論が提示されている。